tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第4話 過去への扉

          1973年6月29日 金曜

 急がないと7時になる。クローゼットから夏用学生服やシャツ・靴下など引っ張り出しては着る・・・・・・元の世界では学生服なんて無かったから新鮮でもある。壁に貼ってある時間割表を見ながら、教科書とノートをカバンに詰め込んでいく。1時間目は理科、続いて英語、音楽、国語、数学。最後は6時間目の必修クラブだけど、いったいこれは何のことだろう?

 中学生の頃は、バックパックに情報端末デバイスを1台入れておけばよかった。だから教科書をカバンで運ぶなんて初めての体験になる。詰め込んだカバンは意外と重い。毎日これを持って通学するのはつらいかもしれない。

 始業時刻は8時30分だから、学校には8時15分までに着けば良いだろう。引き出しの中にあった簡便な地図を見れば、学校の位置はおよそイメージできた。その地図には家から学校までのルートを少年が色付けしている。これによると距離はおよそ3キロメートルに思えた。徒歩で30分ないし40分だろう。7時30分に家を出れば間に合う。でも近所の同級生が一緒に登校してくれるだろうか? 彼らが迎えに来てくれるとは限らない。独りで登校となれば教室までたどり着けるかどうか不安だった。

 遂に7時がやって来た。深呼吸をして胸の高鳴りを抑えると、ドアノブに手を掛けて静かに回した。扉の向こうは廊下になっていて、右方向から朝食の匂いがすぐに漂ってきた。ぎこちなく歩きはじめキッチンテーブルまでたどり着くと、母親らしき人が目に入った。とたんに僕は立ちすくんでしまった。

「何をしているの?早く座りなさい!」朝食の準備に追われる母親は手も止めずに、横目で僕を見ると言った。僕は黙って椅子に座って無言のまま食べ始めた。ごはんに味噌汁、副菜というシンプルな朝食に箸が進んだ。心身ともに疲れていたのだろう、空腹だったことに初めて気がついた。

 残さず食べ終えるまで、母親は長々と小言を続けた。期末テストで良い点を取らなければ弟達に示しがつかないとか、塾の成績が最近下がっているとか、そんなことを飽きもせずに並べ立てる。うんざりしてきたけれど、子供を思ってのことだろうから黙って素直に聞くことにした。箸をおいて椅子から立ち上がると、母親は「はい、弁当」と言って僕に手渡した。

 カバンに詰め込みながら隣の居間へ視線を向けた。父親らしき人がテレビのニュースに耳を傾けながら新聞紙に目を落としている。それは元の世界で見慣れた電子ペーパーとは違う。その人は寡黙で知的な印象を与えた。食卓では小学生の弟達2人がそれぞれやってきて、黙々と食事を始めていた。

 不思議なのは母親を除けばそろって無口なことだった、面倒な会話など不要だと言わんばかりの空気があたりに漂っている。いつの時代でも朝は誰もが気ぜわしく自然と口数も少なくなるだろう。そうだとしても気にも留めないこの家族に限って、一般的だとは到底思えない。

「行ってきます」と言って玄関で靴を履く。「行ってらっしゃい」と言う母親の声を背中越しに聞きながら、玄関の扉を押し開ける。そこには写真で見た同級生が立っていた。彼の胸元には『早志』と書かれた名札があった。途端に感謝の気持ちが湧いてきて「ありがとう!」と声が出た。しかし「お前、今日は珍しく早く出てきたな」とあっけなく返された。これには言葉に詰まって苦笑いをするしかなかった。その後は道すがら色々と話し掛けてくる同級生に対して「うん」とか「そうだね」などの単調な相槌を打つのが精一杯だった。

 暫く歩くと、とある家の前で早志くんは立ち止まった。彼は手慣れた仕草でチャイムを2度ほど鳴らす。するともう1人の同級生が玄関から出てきた。彼には『梅野』という名札が付いている。そこからは3人で学校に向かうことになった。彼らは元気がなく無口な僕の様子に「どうかしたのか?」と心配した。「今日は体調があまり良くなくて・・・」と返事をすると、二人は『なぜ?』という疑問を渋々呑み込んだまま歩みを進めた。

 丘の上まで坂を進むと正門が見えた。校舎の壁にある時計は8時5分だから、ほぼ予想した通り35分の道のりだった。中庭を歩いて渡り廊下に並ぶ下駄箱まで進んだところで僕は、「上履きが無い!」とわざと叫んだ。「どうした?こっちにあるじゃないか」 梅野くんが苛立ちを抑えながら教えてくれた。そこからは彼らの後ろをついて歩いて3階まで上がる。

 階段をのぼって左に曲がると、教室の入口に“1年4組”のプレートが見えた。ここで彼らを呼び止めた。「ごめん!僕の机がどこなのか思い出せない」と信じがたいことを口にした。2人はそろって怪訝な表情を浮かべた。梅野くんが 「お前、ふざけてるのか?!」と怒りながら 「ほら、あそこの2列目の後ろから2番目のところだよ」と指さしてくれた。「お前、今日はよほど体調が悪いよな、保健室に行くか?」と早志くんが僕の顔をのぞき込む。「熱があるのかも知れないけど、いや大丈夫」・・・・・・申し訳なさと噓をつく後ろめたさを感じた。

 彼らが席まで案内してくれたお蔭で、自分の机の上にカバンを置くことが出来た。『ごめんな』と心の中で謝罪して席についた。

 友人達に助けられてなんとか登校できた。自分の席に着くと教室の中を見渡した。その光景は、見知らぬ生徒達の日常のひとコマであり、それ以上でも以下でもない。ただ、45人の中に異邦人がひとり紛れ込んでいるだけのことだった。あと少しで8時30分になる。果たしてどんな先生が教室に入ってくるのだろう?