tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第7話 翻訳機

            1973年7月4日 水曜

 社会の授業が始まっている。1学期は世界地理を中心に学ぶ。先生は熱帯地域や温帯地域などの特徴、そして気候の違いによる人々の暮らしぶりを説明している。同時に黒板を使ってそれらをカテゴライズする。板書のカリカリやキュキュキュは不快とされても、見方を変えると退屈さから解放されるかも知れない。文字を書く時の白墨を叩きつける音や線引きから生じるスクラッチ音など。先生達にも個人差があって、リズムの良し悪しで心地良くも悪くもなる。音フェチではない僕が言うのも変だけれど、この山上先生はセンスがあって上級者のように思える。

 明日から期末テストだというのに授業に集中できないでいる。目の前で繰り広げられている黒板芸をただ眺めているだけだった。頭を少し右に動かして相川さんの様子をうかがった。気が付いた彼女はすぐさま僕に冷たい視線を返してくる・・・ほんとうに中学生なのだろうか?そう疑いたくなるほどクールな女性だった。

 僕の脳にはチップが埋め込んである。小さなチップは脳の外周にあって、そこから脳細胞に接続されている。チップを外部のサーバーに繋ぐことで、脳とコンピュータとの間で双方向通信を可能にしている。この画期的なチップ、すなわちデバイスは多種多様な製品から選ぶことができる。購入したら大脳皮質に埋め込むだけ。それは簡単な日帰り手術で済む。世間では複数のデータベースが利用できるものが人気の的になっている。

 ただし 『統合型データ基盤』を要望すると一気に高額になる。しかも人類の英知を網羅する 『ハイスペック基盤』だと、事前に国の厳格な審査を受けなければならない。元の世界で僕が得ていた収入ではとても手が届かない。チップを埋め込むなら、まずは安価で手軽に試すことができる商品をお奨めしたい。

 この時代にタイムリープしたその日、6月29日未明にベッドで目覚め、最初に湧いた疑問は『どうやって此処まで来たのだろうか?』だった。すぐさま、目覚めるまでのあらゆる記録をデバイスに検索させたけれど、結果は『サーバーが見つかりません』だった。つまり検索できなかったということ。目が開いている限り、視覚情報は記録され続けてサーバーに保存される。そして視覚以外の感覚器官、聴覚・嗅覚・味覚・触覚の情報も24時間記録される。この五感情報はサーバーだけが保有するから、デバイスを通じて知ることができるはず。ところが僕の場合、なぜか通信の遮断が起きていてアクセス不能だった。

 はじめは自然現象などの影響で、一時的な通信障害が起きたと考えた。でもそのうちに、70年前の世界に跳んだことが原因で遮断されたと考えるようになった。翻訳機も基本仕様に組んでいたから、同様に停止しているはずだった。

 機械翻訳は2030年代から急速に発展を遂げて、2040年代に入ると地球上の全言語が翻訳可能になる。こうなると人々は必要な分だけ学べばよいから、語学学習の負担は大きく節約された。英語を例にとると、幼児教育や義務教育にカリキュラムを組んで、多くの時間を費やしていた。ところが残念なことに、受験の知識は蓄積されるけれど使える英語にはなりづらい。翻訳機の誕生で外国人と自由に意思疎通が図れるようになれば、英単語や文法を学習しなくても困ることはない。その分は他の学習に振り向ければよい。例えば日本人が苦手とするディベート(討論)のテクニックを学び、訓練する時間に振替えるのも良いと思う。創造的思考を育む時間に置き換えればどれだけ有益なことだろうか?

「あっ!」思わず出てしまった声は静かな教室に鳴り響いた。黒板に向かっていた先生が振り向いた。生徒達がいっせいに振り返って僕を見た。相川さんは『何がしたいの?』と言わんばかりに軽蔑の眼差しを送っている。「すみません、何でもないです」 顔から火が出るとはこのことだった。

 デバイス機能のひとつである翻訳機は今も失われていなかった!英語の授業でミスター井出の読む英文が日本語で聞こえていた。不思議と気が付かなかったけれど、ラジオで聴く『FEN放送』(※注1)の歌詞や、アナウンサーの言葉も日本語として聴いていた。教科書にある英文に至っては、目の網膜ディスプレイに日本語訳が表示されていた・・・・・・そうだったのか!

 1973年と2043年、この隔たる2地点。未来と過去の双方向通信は可能だろうか?70年という時間的距離だと、光速を超える速さでなければ通信は困難なはず。アインシュタイン相対性理論で 『光速を超えて情報や物質を送るのは不可能』と言っている。ところが元の世界では超光速通信が開発されて、光速を超えた情報伝達が可能になりそうだと聞いたことがある。そうなると、物質は無理でも情報であれば過去や未来に送り届けることが可能になる。双方向通信ができるなら翻訳機は正常に作動する。いや、現実に僕の翻訳機が動いているのだから、未来と過去との通信は可能になったのは間違いない。でも翻訳機以外のデータは相変わらずデバイスに届かない。データ量が重すぎるのか、それとも故障したままなのかも知れない。

 習慣とは怖いもので、元の世界ではあらゆる国の言葉が翻訳されるから、生活の中で外国語を耳にすることはない。外国語を日本語で聴くことに慣れてしまっている。なぜなら日頃から翻訳機をオンのままにしているから。オンオフを状況に合わせて頻繁に切り替える習慣のある人を除いて・・・・・・

 午前の授業は終わって昼食の時間がやってきた。放送部の生徒達が校内放送を使って音楽を流している。聴こえてきた曲が気になったので、「これはなんという曲だった?」と隣の相川さんに聞いてみた。「アルバートハモンドの『カリフォルニアの青い空』※3 というのよ」そう彼女は教えてくれた。そして 「もう一曲は、私の好きなビートルズの『レット・イット・ビー』※4だったよ」と付け加えた。

『成功を夢見て南カリフォルニアに来たけれど、テレビや映画の仕事はうまくいかない。ここは雨が降ることは滅多にないのに、降れば土砂降りになる』・・・こう努力の甲斐がなく、なかなか成功しないと嘆いている。サウンドは青い空を連想させる爽快なイメージなのに、歌詞は南カリフォルニアの気候風土に例えて期待と挫折を婉曲的に表現している。・・・良い曲だった。もちろん僕には、アルバートハモンドの歌詞は日本語で聞こえていた。

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※3『It Never Rains In Southern California』邦題(カリフォルニアの青い空)は、アルバートハモンドが1972年10月にリリースした楽曲。 

※4『Let It Be』は、ビートルズが1970年5月にリリースした楽曲。

(※注1)FEN放送(Far East Network)は、中波帯の電波を用いたAM放送で、1945年から在日米軍向けに放送された極東放送網のこと。毎日24時間、英語による放送が行われる。夜間になると電波が電離層に反射して遠方まで伝わるので、遠隔地でも放送を聴くことが出来る。その後1997年にAFN(American Forces Network)に統合された。


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