tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第25話 春のサイクリング

               1974年4月21日 日曜

 自転車にまたがってペダルを踏むと、春の陽気と心地よい風が体を包み込む。今日は絶好のサイクリング日和のようだ。

 約束した集合時間は9時30分だったけれど、集合場所の綾羅木駅には、30分も早く到着した。僕は自転車から降りると、駅舎入口手前にあるベンチに座った。水筒のフタを回してお茶を飲み始めた時、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。耳を澄ませて、その見えない姿を目で追ってみた。暫く試みたものの、小鳥たちの居場所を目にすることはなかった。

 穏やかに過ごせそうな日だというのに、僕はこれから“おとり作戦”に出発しなければならない。先日のサイクリング計画の打ち合わせでは、近くにいた小津は敏感に反応していた。その表情を見て、彼が襲撃してくるのは間違いないと確信した。でも、いざとなれば、津々木捜査官にまかせておけば安心だと信じている。それでも襲ってくる小津を想像すると、どうしても緊張は静まらなかった。

 今日のサイクリングメンバーは高木くんと康永くんだった。彼らは同じバレー部の部員で、遊び仲間でもある。昨年の夏休みに、監督が命じた遊泳禁止のルールを破って、海水浴へ行った仲間だった。そう、監督が 「おい!そこの真っ黒に日焼けした3人は前に出ろ!」 と指差された3人だ。あの時の、連帯責任という理不尽な罰と、うさぎ跳びを終えた後の拷問のような正座は、今も僕のトラウマとなっている。

 昨日の放課後、津々木捜査官は、「私は君たちと一緒には行かないからな。別行動をとるが、サイクリングの行程は頭に入っているから心配無用だ」と言っていた。

 ようやく3人が揃ったので、9時30分に駅前を出発した。今日の行程は、対岸の九州を臨む関門海峡に向かい、そこで海底トンネルを体験する。その後は、海峡に沿って走る国道9号線を中心街に向かって進む。下関駅前の繁華街を通り抜けたら、日本海側の191号線を北上して、出発地へ戻ることにしている。

 出発後は、まず東南の方角に進むが、途中には勾配のきつい坂道がある。これを考慮すると、1時間30分ほどで海峡に到着する。そこには、対岸の九州を結ぶ海底トンネル入り口がある。自動車トンネルの下に、世界的にも珍しい歩行者用トンネルが掘られている。通行料金は、歩行者は無料で、自転車・原付バイクが20円だった。ただしトンネルの中では、自転車やバイクを押して歩かなければならない。対岸まで徒歩で往復すれば、料金は掛からないので、自転車を置いて歩くことにした。

 きつい坂道は、山の中腹まで続いていたけれど、尾根を超えると後は下り坂で、ペダルを回さなくてもブレーキ操作だけで楽に進む。海峡沿いの国道9号線に交わる三差路まで道を下ると、右手に人道入口の広場が見えてきた。駐輪場に自転車を置いて、大型のエレベーターに乗り込む。地下55メートルまで一気に降りると、エレベーターの扉が開いて幅の狭いトンネルが現れた。此処から780メートルの距離を、15分かけて九州まで歩くことになる。

 対岸に着いたら、折り返して来た道を帰るだけだった。でもなぜか、『海底の下を歩いたぞ!』という喜びが湧いて、満たされた気分になった。こうして地上まで戻ってくると、改めて海峡の様子をつぶさに眺めた。

 此処は海峡の幅が最も狭い場所で、対岸までは僅か650メートルしかない。海峡の東側に瀬戸内海、西側には日本海があって、それぞれの潮位差があるから、海面の高さに違いが生じる。海水は高い方から低い方に移動しようとするから、海水は勢いよく流れて潮流が生まれる。その速さは、最大で時速20キロメートルになるというから驚いてしまう。

 それから、エレベーター入口の先にある小高い山には、対岸に向けて架かる白い橋が見える。この関門橋は、昨年(1973年)11月14日に開通したばかりの、当時としては東洋最長の吊り橋で、自動車専用の高速道路になっている。

 時刻は12時をすでに過ぎていた。今のところは小津の気配は感じられない。広場には、軽食コーナーや自動販売機が並び、テーブルもあるから、ここで昼食をとることにした。ゆったりとベンチにもたれていると、うららかな春の陽気に包まれた。こうして、大小さまざまな船が行き交う光景を眺めながら、3人でのんびりしていると、“おとり作戦”というミッションを忘れてしまいそうだった。もちろん、高木くんと康永くんは、今日のサイクリングがおとり作戦だとは、夢にも思っていない。

 穏やかな風にあたっていると眠気が襲ってきた。それを打ち消すためにも、そろそろ出発しなければならない。ここからは、海峡に沿うように作られた道路を進む。車道と海を隔てる歩道に出ようと、広場から横断歩道を渡った。

 自転車のペダルを回すと、1分も経たないうちに白い橋が上空を覆った。橋の大きさに感心しながら進み続けると、巨大な橋脚の背後から“人間の影”が飛び出してきた。 それは歩道に向かって走ってくる。僕たちは思わずブレーキを掛けて自転車を止めた。 その影は小津に間違いないと僕は身構えた。影が歩道に出てくれば、僕たちを襲ってくるだろう。ところが、その“人間の影”は、何かに躊躇したように、フェンスの手前で突然足を止めると、上空を見上げた。

 なんということか!空から人が降りてきていた。いや、落ちてきたと言うのが正しい。それは影に向かって体当たりをした。それとも、落下して衝突したというべきか? いずれにしても、影にとってはかなりの衝撃だったはず。それが証拠に影は地面に伏せて動かなくなっていた。“落ちてきた人”は影に手錠のようなものをかけようとしていた。すると影は手を振り払って、落ちてきた人と組み合うと、どちらも動けなくなった。影は地の底から響くような唸り声をあげた。

 高木くんと康永くんを見ると、彼らは顔を強張らせて足が震えていた。僕もその場から立ち去りたいという気持ちばかりが強くなっていたから、「もうここから離れよう!」 と2人に声を掛けた。お互いにうなずくと、気になる後方を時々振り返りながら自転車を進めた。

『“人間の影”は小津に間違いない。そして“落ちてきた人”は津々木捜査官で、小津が僕を襲うタイミングで登場してきた。どうなってしまったのか気になっても、あの場所まで戻るのは無理だった。津々木捜査官には悪いけれど、僕たちの安全を考えると、それは出来なかった』

 僕たち3人は、無言のまま自転車のペダルを回し続けた。すると突然、何かがこすれ合う音が聞こえてきた。バラバラかバリバリなのかはっきり覚えてないが、その音は急速に僕たちに近づいてきた。後ろを振り返ると、驚いたことに、その正体は大量の紙幣だった。後方から風に乗ってやってきたようだった。自転車の周りを、おびただしい数の千円札や1万円札が乱舞している。考えられない光景が目の前で繰り広げられている。

「うわー、おい、これって、どうする? わーっ!」高木くんは会話にならない言葉を発して、紙幣を追いかけた。康永くんと僕も同様に紙幣を一所懸命かき集めた。車道に出れば自動車が走っているのでとても危険だった。海風に乗った大量の紙幣は、桜が舞い散るように海峡にも飛んでいる。それを追いかければ、海に転落して潮流に呑まれてしまっただろう。

 突然、急ブレーキの音がしたかと思うと、歩道に停めてある自転車の前方に、1台のタクシーが停車した。タクシードライバーは、急いでドアを開けて出てくると、危険を顧みることなく、車道に出て紙幣をかき集めた。彼は集めた紙幣を束にすると僕たちに問いかけてきた。

「おい!これはお前たちの物か? どうなんだ、違うのか?」

「僕たちの物ではありません。誰の物かも分からないです」と康永くんが答えた。高木くんも僕もうなずいた。

「そうか、だったらこれは俺がもらっておくからな。お前たちも拾った分はもらっておけ!」

 ドライバーはそう言うと、タクシーを発進させた。後部座席には老夫婦が乗車していた。走り去る車中から、その老夫婦は僕たちを心配そうに見ていた。

 集めた紙幣を3人で数えていた時、20代らしき3人の男女が目に入った。そのうちの1人が、数百メートル後方から駆け寄って来た。

「やあ、お金を落としてしまって探していたんだが、先ほどから見ていると、君たちが拾ってくれたようだね。助かったよ、どうもありがとう。ところで幾ら拾ったんだい?」

「えーと、全部で8万4千円です。あとは海に飛んでいきましたから」 高木くんが答えた。

「そうかい、だったら拾ったお金の1割をお礼にあげるよ。どうもご苦労様でした」 そう言い残して、彼はお金を持ち去って行った。

 高木くんは納得できずに憤慨した。「彼のお金ではないよね?舞っていたお金は少なくとも100万円は下らなかった。彼が持ち主だとしたら、失ったショックもなく、にこにこしていると思うかい?間違いなく嘘をついているよ。それに1割だったら8千4百円だろう?なのに、くれたのは4千円じゃないか!」

 手元に残ったのは僅か4千円だった。元気なくサイクリングを再開すると、暫く走ったところで道路の右手に交番を見つけた。僕たちは、この持ち主の知れない4千円をどうしようかと持て余していた。時間が経つほどに、警察に届けるべきだという気持ちが大きくなっていた。

 交番に入ると、3人が交互に事の経緯を説明した。警察官の一人は、僕たちの話に興味がなさそうにメモを取ったあと、「それで金額は4千円で間違いないかな?ではこれは本官が預かっておくから・・・どうもご苦労様でした」事務的に話を終えると、奥の部屋に入って行った。

 交番を出ると、高木くんがまた憤りを隠さなかった。 

「此処でも『どうもご苦労様でした』だよ。どういうことなんだよ?僕たちは馬鹿にされているのかい?拾い主の名前や住所を聞かずに、ご苦労様だって!あの警察官のお金になるってこと?もう大人は信じられないよ!」