tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第40話 海洋学教室

               1974年12月21日 土曜

「植物にばかり目を奪われていたということね。果実は分からなくもないけど、昆虫や動物からも香り成分が採取されているなんて、知らなかったわ・・・思い込みには、気を付けないといけないわね」愛原さんは予想もしなかった原料に、少し驚いた様子だった。

 週明けの12月16日月曜、昼休み時間に、僕は愛原さんに先週の状況について話した。

 ・完成したボトルに違和感を覚えた。 

 ・複数の人たちからアドバイスを受けた。

 ・何かの原料を足すべきだと結論付けた。 

 ・足すべき原料とは、植物由来ではなく、動物由来ではないかと考えた。

「そうね、動物由来に絞り込むのは私も賛成する。時には決め打ちも必要なのよ。そう!きっとそうよ。でもね、動物から成分を取り出して調合するなんて、私たちに出来ることかしら?」

 これを聞いて、僕は自分の浅はかな考えを恥じた。まず、動物の香り成分をどのようにして手に入れるのか?入手がいかに困難であるか、想像すれば直ぐに分かるというのに・・・

「そうだね。動物の場合は、生殖腺分泌液から採取するとあるから、難しそうだな。 例えば、ジャコウジカのムスク、ジャコウネコのシベット、ビーバーのカストリウムなどがあると専門書にあった。そんな珍しい動物の成分なんて、いったいどこにあるんだろう?」

 愛原さんは暫く沈黙を続けると、次のように話を切り出した。「そんな希少動物の成分を謎の老人が使うかしら? 最近は動物保護の運動が盛んになっているから、希少動物は捕獲が禁止されていて手に入らないと思う――――――こうしたらどう? 海洋哺乳類に当たりを付けてみるのよ。つまり生存数の多い動物に着目するということ。2組の越川翔子さんのお父様は、水産大学の教授でいらっしゃるわ。だから海洋動物には詳しいと思う。相談に乗って頂ければきっと道が開けるはずよ。まずは越川さんにお願いしてみましょうよ」

 早速、僕たちは2組の教室をのぞいた。そこに越川さんの姿を見つけると、愛原さんは、「翔子ちゃん相談があるのよ、お願い!」と手招きをした。越川さんが 『いったいどうしたの?』 という顔をして教室から出てきた。

 愛原さんは僕の抱える事情を、越川さんに手際よく説明した。それがあまりに正確過ぎるので、なぜそこまで知っているのかと不思議でならなかった。知り得ないことを知る彼女は、やはりタイムリーパーに違いないと確信した。それはともかく、愛原さんのおかげで教授に会いたいという熱意は、越川さんに伝わったようだった。

「事情は十分理解できたわ。でも父はとても忙しいから、簡単には時間がとれないと思うのよ。家に帰ったら相談をしてみるから、返事は暫く待ってね」

「翔子ちゃんありがとう!良い返事をお待ちしてます」 愛原さんは嬉しそうにお礼を言った。

 翌朝、僕はプレハブ教室の前にある下駄箱で上履きに履き替えようとしていた。すると「摩耶くん、おはよう」と後ろから声がする。振り返ると、そこには越川さんの姿があった。

「父に相談したわよ。すると、大学に一度来たらどうだろう?と言っていたわ。実は、市民も聴講できる講義を父が受け持っているの。これに参加すればディスカッションもできるからと、友達を誘いあって来なさいと言うのよ。次の講義は12月21日土曜10時30分だから、4日後になるわね。それに『海洋哺乳類』を講義のテーマにしてもいいと言ってくれている」

「そうなの?それはほんとうにありがたいな。梅野くんと早志くんを誘ってもいいかな?」

「もちろんかまわないわよ。では、駅での集合時間を9時30分にしましょう」

 越川教授は、市民講座を“海洋学教室”と銘打って、月に1度開催しているという。僕は期待に胸を膨らませて当日の朝を迎えた。

 綾羅木駅に集合したのは越川さん、愛原さん、そして僕たち近所3人組だ。9時40分の列車に乗って吉見駅で下車した。駅を出て15分ほど歩くと大学の校舎が見えてきた。 梅野くんは 「こんな機会でもなければ、水産大学の校内に入ることはないだろうな」 と言って、キャンパス内をくまなく見学していた。教室の席に着いて暫くすると、越川教授が入室されて講義が始まった。

 教授は、海洋哺乳類の概要について説明を始めた。――海に生息する哺乳類は、海獣(かいじゅう)とも呼ばれる。一般的に知られるのは、クジラ、イルカ、シャチ、アザラシ。この種は、陸上哺乳類とは異なる生態を持っている。呼吸をするために水面に頭を出す必要があるから、長時間水中に潜ることはできない。また、陸上の哺乳類と比べて大型であることが多く、海洋では食物連鎖の上位に位置していること等々だった。

 聴講生たちが特に興味を引いたのは、シャチの生態だったろう。

「シャチは北極圏などの海に生息しており、体長は9メートル、体重は5トンにもなる。彼らは群れを作って生活をし、年長のメスを中心とした母系社会を形成するといった、社会性を持つ珍しい動物である。シャチは主に魚やイカ、アザラシを食べるが、集団で狩りをおこなうことがある。巨大なクジラを、群れで襲って食べる」・・・教授は更に話を続ける。

「特筆すべきは、知能が非常に高く、襲う相手の身体特徴をつかむと、その弱点を突いて仕留める。例えば、肺呼吸をする獲物が水面に出て息継ぎをするのを妨害して溺死させたりするのだ。また、クジラと同様に2種類の音を使い分けている。1つはコールと呼ばれ、メンバー同士のコミュニケーションに使用する。もう1つはメロン(クリック音)と呼ばれる音波を発射して、反響音を感じることで前方に何があるか判断する。 しかも、エコーロケーション反響定位)と言うクリック音の性能は高く、波形の違いから物質の成分や内容物まで認識が可能だ。群れは、母親を中心とした血の繋がった家族で構成されている。それぞれの群れは、その家族独自の『方言』とも言われるコールを持ち、家族内で情報交換をする。その『方言』は、親から子へと代々受け継がれていくことが分かっている」

 この圧倒されるまでのシャチの生態に、聴講生たちは教授の口元をじっと見つめて聞き入った。―――「さあ、ここからはディスカッションのコーナーとしよう。自由になんでも質問しなさい」

 大学生の数人が挙手をして続けざまに質問をおこない、同時に議論が繰り返された。 そのあとに続くように、僕は手を上げて質問をした。

「私は自然界の香り成分について色々と知りたいと思っております。そこで、香り成分が抽出できる海洋哺乳類には、どのような種があるのかお聞きします。たとえばシャチなどはどうでしょうか?」

「シャチから香水の原料を取ることはできるが、シャチの体臭が人間にとっては不快だから、香水の原料としては適さない。またイルカやアザラシなどはまったく採れない。 ただし、マッコウクジラは香水の原料として『アンバーグリス』というものが採れることが広く知られている」

「では、そのアンバーグリスについて、詳しく教えて頂けないでしょうか?」

「そうだな。龍涎香(りゅうぜんこう)ともいうアンバーグリスは、マッコウクジラの腸内に発生する結石だ。龍涎香が香料として使用されたのは7世紀のアラビアだといわれる。良い香りと色と形から、“龍のよだれが固まったもの”だと中国では考えられた。 日本には室町時代に伝来したと推測される」

「どのような香りがするのでしょう?」

「腸内で生成されたばかりの龍涎香(りゅうぜんこう)は、海の匂いや嫌な糞便臭がする。ところが熟成するにつれて甘い香りになるのだ。薬品のような渋みはなく、消毒用アルコールの香りに近いとも言われる。また、商業捕鯨が行われる以前は、マッコウクジラの死骸が海岸に流れ着いた時のみ流通した。よって非常に貴重な天然香料であった。今では鯨の解体時に入手することができるから、多少高価ではあるが商業的に供給がなされている。今後、商業捕鯨が禁止される可能性もあり、再び偶然によってでしか入手できなくなることも考えられる。そうなると希少性が増して、一頭から得られるわずかなアンバーグリスが、数千万円から数億円という高額で取引されることになるだろう」

 僕は教授の話を聞いて目の前が暗くなった。こんなに高価なアンバーグリスを試すなんてできるはずがない。ではいったいどんな方法があるのだろう?そう考えていると、90分の講義は終了してしまった。

 12時になると教室から廊下に出ることになった。越川教授は 「今日は我が大学の見学に来てくれてありがとう。講義は退屈ではなかったかね?さあ、お腹も空いたことだし、学食でランチでも食べよう!」と誘ってくれた。

 教授を目の前にして緊張はしたが、食事を進めながら談笑を重ねた。早志くんは「摩耶ぁ、お前はいつも変なことばかりに興味を持つ奴だな。香りにこだわるなんてお前らしいよ」と笑う。梅野くんが続けた。「そうだけど、摩耶くんが何かにこだわると、それが気になるな。その先には、僕たちがわくわくすることが待っているような気がするんだ」

「越川教授はアンバーグリスをお持ちでないのですか?」と愛原さんは質問した。

 教授は口にしていたごはんを喉に落とすと、考え込むようにしばらく間を置いた。「実は“大洋漁業”の知人が、研究用にと届けてくれたものがあるんだ」と打ち明けてくれた。

これを聞いた彼女は、衝撃的とも思えるお願いをした。

「私たちは複数の成分を調合して、新しい香りを作る研究をしています。アンバーグリスは、求めていた原料だと思いました。欲しいのは0.5グラムなのです。失礼を承知で申し上げますが、そのわずかな量を分けて頂けないでしょうか?」

 越川翔子さんは、この2人のやりとりを心配そうな面持ちで見守った。

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