tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第32話 別れ

       1974年7月20日 土曜

 梅雨の季節は、エアコンの無いプレハブ教室にとって、日々が蒸し暑さとの戦いになる。隣接する老朽化した鉄筋造りの西校舎は、涼しげに思えて羨ましく思う。しかし期末テストが終わって、夏休みが近くなると様子は少し違ってきた。教室中の窓を開けておけば、付近の木立を通り抜けて来る風は爽やかで、特に午前中は清々しく感じられるようになった。

 2年3組の相川詩織さんとは、学校で会話を交わすことは無かったが、昨年の夏、市立図書館で出会って以来、休日を使って図書館で待ち合わせをした。そして“連絡会”と称して、2~3時間の対話をこれまで繰り返してきた。

 連絡会では、出来る限り彼女に情報提供を行ってきた。津々木捜査官が、時間犯罪警察局からこの時代に派遣されてきたことや、麻薬取締官の真鳥真吾さんが、特命を受けて緊急に派遣されたことなど。もちろん彼らの立場を脅かしかねない話は口外していない。他には、小津真琴が別人の姿をして襲ってきたが、同級生3人が協力して僕を助けてくれた話。友人とのサイクリング中にも、待ち伏せていた小津に襲われたこと。すんでのところで、捜査官が立ちはだかって、僕たちを救ってくれたことなども伝えた。

 彼女は連絡会のたびに、小津の動向やタイムリープに関する重要な情報を教えてくれた。そして“あの香水のような匂い”の秘密を懸命に探り続けてくれていた。

「なぜ図書館に僕がいるのを知ることができるの? 君は、ある方法を使えば簡単だと言った。その方法とは何か教えてくれない?」

「小津も同じ事ができると言ったと思うけど、それは彼が私に教えてくれたからなの。ある薬品を使うんだけど、標的にした人間の皮膚に、微量の薬品を付着させるのよ。そうすると、標的の動きが手に取るように分かるようになる。GPSよりも精密に、他人の行動が管理できるのよ」

「いつそれを僕の皮膚に付着させたの?」

「それはとても簡単だったわ」彼女は笑みを浮かべて言った。

「摩耶くん、いや、鹿間くん、あなたは授業中、考え事に夢中になることが多いよね。それに机の上からよく物を落とすわ。落とした消しゴムを拾ってあなたへ渡す時、右手の甲にスポイドでワン・ドロップしたのよ」 

「まったく気が付ついてないでしょう?」相変わらず微笑む彼女は話を続けた。

「すると、付着した液体の表面に2ケタの識別番号が一瞬浮かび上がるのよ。私はその番号とあなたの名を黙唱すればいいの。そうすれば、私の脳に埋め込まれているチップを介して動線分析ツールに登録される。 凄い薬品でしょ?小津が以前働いていた会社が、2045年頃に開発したと聞いている。でもやがて、プライバシー侵害が社会問題化して、市販するのは法律で禁止されたらしい。確か、薬品の原料はハーブの一種だと言ってたわ」

 このように彼女は、僕が知りたいという欲求に応えてくれることが多かった。それは小津から巧妙に聞き出してくれた努力の結晶だといえる。

「当然のことだけど、小津は私の行動を管理したいから、私にも液体を付着させている。ところがある時、ツール上の位置表示が動かないようにする方法を見つけたのよ。だから鹿間くんに会っている時は、私は自宅から出ていないように見せてるの」

「ほんとうなの?いやぁ、凄い技術だな。それに相川さんも一枚上手だね。何よりも、君が脳にチップを埋めているとは思わなかった。なぜかって言うと、チップを介して政府のサーバーに繋がっていれば、行動は全て政府の監視下に置かれる。違法行為があれば、直ぐに捕まってしまうからね」

「違うのよ。政府のサーバーではなくて、裏社会が独自に構築したネットワークよ。それにこのシステムは、優れたセキュリティを持っているの。メンバーの誰かが捜査官に捕まって、埋め込んだチップを取り外されたとしても、裏サーバーとの通信を、即座に遮断する安全装置が付いている。だから、この悪質なネットワークは揺るぎないと言ってもいい。言い換えれば、アンダーワールドを切り崩すのは、至難の技ということね」

 今日は7月20日。今は夏休み直前の連絡会になる。ところが、相川さんとの別れは突然やってきた。 

 彼女は話を切り出す。父親が転勤になり、月曜までに荷出しを済ませて、名古屋市へ引越さなければならないという。

「―――ショックだな。なんだか、体中の力が入らなくなったよ。ここから遠く離れたとしても、君は小津から逃れられないと思う。心配で仕方がないし、僕たちはこの先どうなるんだろう?」

「いい大人が何を弱気なこと言ってるの? しっかりしなさい! あなたは25歳の青年でしょ?」

「35歳の相川さんには負けるよ!」

「なんだとー、僕ちゃん!」―――2人で親しみを込めて笑い合っていると、貸出カウンターに立つ、いつもの男性職員が「しっ!」と唇に指をあてた。

「私の事は心配しなくても大丈夫。それよりも“あの香水のような匂い”の秘密だけど、『時をかける少女』で登場した、ラベンダー効果というのは、あながち空想ではないみたい。一般的に、ラベンダーは高ぶった気持ちを沈めたり、痛みを和らげたり、炎症を鎮める効果があるといわれる。でもまだ全ての効果は明らかになっていないわ。時間旅行へといざなう、ツールになるのかも知れない。小津は香りの原料が時間跳躍に欠かせないと言っていたしね」

「僕が元の世界で働いていた研究所であれば、解明は可能だと思うんだ。そこには優れた量子コンピュータがあるからね。成分分析や、薬品の組み合わせなど、新薬の開発を最も得意とするのが量子コンピュータだからね」

「でもこの時代にはそれがないわね・・・・・・そうだ!鹿間くんの脳チップで元の世界と通信をして、協力者に分析を依頼したらどうなの?」

「それが、僕のチップは翻訳機しか使えない状態なんだ。何者かがサーバーとの通信を遮断しているとしか考えられない。通信が可能なら、直ぐにでも弟に依頼するんだけどね。鹿間敢太はまだ大学4年生だけど、量子コンピュータの扱いは一流なんだ」

「そうなの? だったら、いまのところは香りの原料を絞り込んでおくべきね。まずはラベンダーを含むハーブ種から始めたらどうかな? そして並行して、通信を再開させる方法を探るのよ」

「そうだね。まずは花やハーブ種などの、香りに特徴ある植物を調べてみようかな?」

「ラベンダーから勉強するなら、2年3組の愛原京子さんを訪ねるといいわよ。彼女の家はハーブを趣味としているから、有益なアドバイスを受けることが出来ると思うわ」

 図書館を出た後は、寄り道するのがすっかり習慣になっていた。そう、それは大通りを左に曲がったところにある小さな喫茶店。グラデーションブラウンのサングラスが似合うママさんが迎え入れてくれる。店内に入ると早速、二人掛けのテーブルに座る。

「あなた達はいつも決まった席に座って、難しそうな話をしているけど、ほんとうに仲がいいわね。 それに、コーヒーの香りを優雅に楽しんでいる姿は、とても中学生には見えないわよ」 

 それも今日が最後かもしれないなと思いながら、ママさんの言葉が心に染みた。

 サイフォンで入れた香り高いコーヒーが楽しみのひとつだった。ふたつ注文すると、ママさんが豆から抽出する準備を始める。沸きあがるコポコポという音に期待は高まり、フラスコ内の沸騰したお湯が移動してコーヒーが抽出されていく。ママさんは竹べらで円を描くように“かくはん”する。それは理科の実験のようでもある。

「あさってには旅立ってしまうんだね。―――僕は見送りにはいけないけど、名古屋に行っても元気でいてね。必要であれば、いつでも津々木捜査官の空間移動装置で飛んでいくよ」

「うん、わかった。鹿間くんも頑張ってね。新たな情報をつかんだら直ぐに連絡するわ」

 お店の中では有線放送から洋楽が流れていた。今流れている曲は、今月発売されたばかりのウイングスの新曲『バンド・オン・ザ・ラン』※17だった。

「この曲は、刑務所から脱走するという話だよ。“もし、この檻(おり)の中から出られたら”と、主人公は想像するんだ。僕らは犯罪者ではないし、そうなりたいとも思っていなかったのに、どうして此処にいるんだろう? こうして、逃避や自由について語られる。とても深い話なんだよ」

 裏手のドアから、蕎麦屋のご主人が絵画を抱えて入って来た。喫茶店の壁に掛かる絵を外して、新しい油絵を掛け直した。新作の絵はお店の雰囲気を変えて、僕たちはより楽しく時間を過ごすことができた。

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※17『バンド・オン・ザ・ラン』(Band on the Run) は、ポール・マッカートニー&ウイングスの楽曲。日本では1973年7月にリリースされた。アメリカでは1位、イギリスで3位を獲得した。ジョン・レノンは「良い曲だ。アルバムも良い」と、珍しく高く評価している


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