tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第43話 溶剤抽出法

               1975年1月8日 水曜

 寒い朝は苦手だった。目覚まし時計が鳴り続けていても、ベッドから起き出す気力が湧いてこない。布団がどれだけ恋しいことか、もう少し寝ていたい誘惑にかられる―――部屋のドアが突然開いて、少年の母親が入って来た。「時計が鳴っているじゃない。うるさくて仕方ないのよ。近所迷惑なのが分からないの?今日から学校なんだから早く起きなさい!」 彼女はそう言い放つとキッチンへと戻って行った。

 そうだ、今日は3学期の始業式だった。しかも越川さんが“アンバーグリス(龍涎香)”を持ってきてくれる大切な日だった。それを思い出した僕は、慌てて布団を蹴ると起き上がった。

 母親の大袈裟で厳しい言葉は、目覚まし時計よりもはるかに効果がある。しかし、起きたとしても家の中は寒々しい。ストーブなどの暖房器具を一切使っていないからだ。 これは、長引く物価高に対抗する手段として、彼女が考えた会心の策だった。

 暖かい味噌汁でご飯を掻き込んでいると、テレビの音に気が付いて居間に目をやった。天気予報は 『今日は雪まじりの強い風が一日中続くでしょう』 と言っている。玄海灘から吹き込む横殴りの風だけでも憂鬱なのに、雪まで降るのかと思うと、気落ちするばかりだった。

 僕はため息をつきながら、学生服の下にセーターを着こむと、早志くんが外で待つ玄関を出た。「これだけ寒いとたまらないね」と言うと、早志くんは「そうか? でも所詮、寒さや暑さというのは、単なる人間の感覚に過ぎないからな。そもそも、この世界には意味や目的なんてものは無いのさ」と、やけにニヒルな返事をした。

 2人で梅野くんの家まで向かう途中、遠くに中学校の校舎が見える、視界の開ける場所に出た。そこは、さえぎる建物がなく、田畑だけの平地が広がっている。その途端、吹きすさぶ風と、横殴りの雪にさらされた。「アンビリーバブル!こんな馬鹿げた寒さがあるかい?きっと顔も凍り付くような氷河期がやって来たんだよ」早志くんは顔を歪めて驚きの声を響かせた。僕は笑みを浮かべながら 「熱くなり過ぎた地球を冷やす意味で、氷河期もまた必要なのさ」と言った。

 冬休みに入る直前、デバイスチップは完全に復旧した。僕は急いで弟の敢太にメッセージを送ると、その後はデバイスチップを通じて、彼との会話を始めた。

『敢ちゃん、どうして僕が行方不明だと気がついたんだ?そちらの世界では、キュビットシステムの研究所に勤務している僕がいるだろう?』

『そうなんだけど、半年ほど前に、その彼に違和感を覚えたんだ。例えば僕の書いた論文に対して、以前くれたアドバイスとは真逆のことを言ったりしてね。理論的過ぎるんだよ。少し大袈裟だけど、別人のように思えてきた。言い換えると、その話しぶりはプログラムされたAIのように思えたよ。ちょっとした差だけど、人間は自由な意志や倫理観を持って動くものだよね。それ以来、兄貴はどこかに行ってしまったと考えるようになった』

『よく気が付いたな。僕は70年前に跳躍した時、意識が他人の身体に入り込んだ。だからその時から研究所にいる僕は、無意識がコントロールをはじめた。無意識が取る行動は、理由のない衝動や反射的な反応によって起こることが多い。その反面、意識が取る行動は、自分の目標や価値観に基づいて選択され、その行動理由も説明できるんだ・・・これを“人間らしさ”というんだよな』

『研究所の兄貴は他人だと疑ったから、遠隔操作で彼のデバイスチップをスキャンしてみた。電気信号化された全ての履歴を取り出し、大学のコンピュータで解析したところ、わずかな変化が確認できたんだ。それは2043年6月29日午前1時20分のデータ。微弱な揺らぎのような変化だけど、ここでチップは2つに分岐したと思われる。その後、1時28分には分岐した片方の電気信号は忽然と消滅している。つまり70年前の兄貴は、この世から消滅したんだよ』

『そうだったのか!小津は僕を被験者に選び、2043年6月29日午前1時20分にそれは実行された。生物工学研究所の研究者たちは、タイムリープに成功した治験データを即座に収集したのだろう。そして証拠隠滅のために、8分後に僕のデバイスチップとサーバーの通信を遮断したんだ』

『更に、抽出した8分間の微弱な電気信号を、量子コンピュータで解析してみたよ。 すると兄貴のデバイスチップが特定できた。それでメッセージの送信を始めたという訳なんだ』

『なるほど!デバイスチップが2つに増えたのは8分間だけだ。だからこれまで政府は違反に気がつくことがなかった。ところが、今回の復旧で新たなデバイスの存在を検知して、政府は警告メッセージを僕に送ってきたよ。敢ちゃん、どうしたらいいだろう?』

『だったら、研究所にいる兄貴のデバイスチップを一時的に遮断してみよう。そうすれば当面は誤魔化せるだろうよ。心配しなくていい』

 2組の梅野くんは、始業式が始まる直前に教室の外から僕を呼んだ。「理科室と実験室の使用許可がやっと下りたよ。放課後の1時間を使っていいことになったから、今日は始業式の後に理科室に集合だ。ただし、七島先生が時々様子を見にくるという条件付きだけどね」

 放課後になると、理科室に“とあるメンバー”が集合した。越川さんはアンバーグリスを持ってきてくれた。机の上に置かれたのは、小さな浮石のような塊だった。僕たちはそれをじっと見つめると、甘く土のような香りを嗅いだ。越川さんは教授からの伝言で、調合する手順を話し始めた。

「アンバーグリスのエッセンシャルオイル精油)を作る方法には、エタノールなどの溶媒に原料を漬けて、その後に溶剤を取り除くという、溶剤抽出法というのがあるらしいわ。他には、アンバーグリスを椿油に漬けこんで、非加熱でじっくりと香りを抽出していく方法もあるのよ。でもこれだと、抽出に数か月の時間を要すると父は言っていたわ」

「だったら、そんなに時間を掛けられないから、まずは溶剤抽出法でやってみてはどうだろう?」と、梅野くんが提案した。

 愛原さんは、越川さんが説明する溶剤抽出法の手順を、黒板を使って整理した。「まず、アンバーグリスを細かく砕くのね? 次に、その砕いた粉をエタノールに浸す。そして・・・時間を置いて、溶媒に溶け出した香り成分を別の容器に移します・・・・・・溶媒が蒸発すれば香り成分だけが残るのよね・・・最後に、残った香り成分から不純物を取り除けば完成。これでいいかな?」

 僕は作業に協力してくれるみんなに、お礼とお願いをした。「協力してくれて、心から感謝します。それでは、作業に取り掛かる前のお願いです。アンバーグリスの溶剤抽出は、みなさん3人で進めてもらえますか? 次に、ラベンダー・ローズマリー・ビャクダン・ゼラニウムを調合したボトルがこれです。溶剤抽出が完了すると、抽出した精油をこのボトルに加えますが、この作業は愛原さんにお願いします。これは最も慎重でなければならないので、3組の津々木くんにも確認をお願いしました。僕と彼の意見を聞きながら微調整して欲しいのです。彼は、僕たちが目指す香りを最もよく知る人物だから、頼りになるはずです」

 理科室のドアが開き、七島先生が入ってこられると、室内の様子を確認された。 「気持ちを落ち着かせることができる、新たな香料を作るなんてよく考えたものね? リラックス効果が高ければ、勉強や仕事にも役立つでしょう。完成したら先生にも使わせて欲しいな。ではみんなで協力して頑張ってみなさい」そう言って先生は理科室を出て行かれた。

 3人は溶剤抽出の準備に取り掛かった。アンバーグリスを細かく粉砕する。砕いた粉を次々とエタノールに浸していく。エタノールや必要な器具は実験室に揃っているから、作業は順調に進みそうだ。 

 僕にはまだ解決すべき課題が幾つか残っている。中でも先決すべきは、仕上がった香料、つまり“タイムリープの制御物質”の操作方法を、確認することだった。津々木捜査官や真鳥さんは、頭の中で念じればそれで良いと言っていたが、もう少し具体的に知っておく必要がある。ここは弟に相談するのが一番だ。

『敢ちゃんに“タイムリープの制御物質”の操作方法を調べて欲しいんだ。もしかすると、キュビットシステムの研究棟に入っている、生物工学研究所のコンピュータにデータが残っているかも知れない。できたら制御物質の成分や作り方なども分ると助かるな』

『うーん、それは結構ハードルが高いなあ。そのような情報は機密性が高いだろうから、簡単にアクセスできないかも知れない。どの程度のセキュリティ対策が取られているか分からないけど、やるだけやってみるよ』

『無理しないでいいからな・・・』

『まぁ、任せておきなよ。僕はホワイトハッカーだと自認しているけど、こんなことばかりしていると、世間はサイバー犯罪まがいのブラックハッカーだと思うかも知れないね。でもここは頑張って、ハッキングの成果を見せてあげるよ』

 家に帰って入浴と食事を済ませて部屋に入ると、机の前で眠気に負けて、うとうとしてしまった。知らない世界を浮遊している不思議な夢を見た。その夢には、なぜかBGMが付いていた。曲名は『夢の夢』※注22 という。

★――――――――――――――――★

※注22「夢の夢」(#9 Dream)は、ジョン・レノンが1975年1月にリリースした曲。4枚目のソロアルバム『心の壁、愛の橋』からシングルカットされた。この曲は、ジョン・レノンが夢で聞いた言葉や、メロディーをもとに作ったと言われる。曲名はジョンのラッキー・ナンバーである9にちなんで名付けられ、アメリカのビルボードチャートでは9位まで上昇した。


www.youtube.com