星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
最終47話 汽笛
1975年3月20日 木曜
遠くで列車の汽笛が鳴った。ベッドから身を起こし、机の置き時計に目をやると、午前4時21分。最近は、蒸気機関車の姿を見かけなくなった。国鉄は「無煙化」を進めていて、『DD51形』※56のような、ディーゼル機関車に置き換えられている。でも、煙を吐いて走るあの姿が時代遅れになっていくのは、なんだか寂しい。
山陰本線沿い、沿岸漁業が盛んな北浦地区からは、漁師の妻たちが夜明けの列車に乗って、下関駅へと向かう。カニやイカなどの海産物を、籠やバケツに詰めて車内を歩き、乗客に声をかけながら売っていく。まだ夜が明けきらない時間なのに、車内は驚くほど活気に満ちていて、その光景は山陰本線の名物として知られている。
勉強部屋の照明をつけて、誰もいないキッチンに向かう。ポットでお湯を沸かして、インスタントコーヒーをマグカップに注いだ。部屋に戻って机に座り、両手でカップを包み込むように持つ。じんわりと手のひらが温まっていく感覚に、ようやく自分の体が冷えていたことに気づいた。この時期なら、もっと暖かいはずなのに...室温計を見れば、たったの4度。冷たさが、背中をそっと撫でていく。
カーテンの隙間から覗く闇は、静寂に包まれていた。雨音も聞こえてこない。だけど、あの夜は違った。部屋の灯りに反射した雨粒が、小さな銀の矢みたいに地面を打っていた。あれから、もうすぐ2年になる。それでも、あの日の記憶は今も鮮明に残っている。今日で、この世界に来て630日目―――。 突然、見知らぬ時代に放り出された僕は、戸惑いながらも、抗えない運命を受け入れるしかなかった。そして今も、他人を演じながら生きている。
AIロボット『クロノスC―931』が僕を助けてくれたのは、先月の2月11日だった。テクノロジーは、夢を現実に変えながら、止まることなく進化している。400年先の技術が、僕に70年後の世界へ戻るチャンスをくれた。けれど、その機会は何度も訪れるとは思えない。だからこそ、僕はどうしても、自分が居るべき時代に戻らなければならない。
パラレルワールドから戻って3日後。放課後の理科室には、いつものメンバーが集まっていた。梅野くんは、調合をやり直す必要があると、みんなに打ち明ける。そして、アンバーグリスを電気分解する手順についても説明した。
理科室のドアが開き、5組の日景一洋くんが遅れて入ってきた。「どんな電気分解装置を作るんだい? 正確な設計図があれば、作れないこともないけど……」 彼の問いに、僕は慌てて準備していた設計図を机の上に広げた。言葉を探しながら、図面を指でなぞって説明する。日景くんはじっと図面を見つめ、何度かうなずいた。
「装置に必要な材料は、電極に使う炭素や金属の線・棒、それから電解槽を作るためのU字管だね。あとは、電源装置と電解液も準備しないといけない」僕がそう説明すると、設計図をのぞき込んでいた日景くんが口を開いた。「電源装置は、僕が持ってるやつで代用できそうだよ。それから、電解液は塩化ナトリウム水溶液で十分だと思う。ほかの材料は、必要なら買い足そう。これ、完成させるのは期末テストが終わった2月26日ってことでどう?」
こうして、僕たちは週末に電気部品店を回って材料を揃え、テスト明けの2月26日を迎えた。放課後になると、日景くんが完成した装置を理科室へ持ち込んだ。それはまるで、電気メーカーが製作したかのような見事な出来栄えだった。電解槽は透明なガラス製で、内部には塩化ナトリウム水溶液が満たされている。電極には炭素の棒が使われ、両端には金属線が丁寧に巻かれていた。電源装置は小型のアダプターで、コンセントに差し込むだけで作動する。日景くんは、迷いなくスイッチを入れた。 ――そして、電気分解が始まった。
―――――「電気分解は終わったみたいね。さあ、次は私たちの出番よ。摩耶くん、アンバーグリスの調合量は前回のレシピ通りでいいかしら?」愛原さんが、念のため僕に確認してきた。
「うん、量的には前回と同じでいいと思う。ただ、香りは前回のボトルよりももっと深みが欲しい。だから、ほんの少しだけ足すとか、微妙な調整が必要になるかもしれない」
「そうなの? それは大変だわ。みんなで協力して、なんとか頑張らないと!」愛原さんが、声を弾ませながら言った。
「そうだね。アンバーグリスは貴重な素材だから、無駄にしないように気をつけないと。でも、うまくいけば摩耶くんだけじゃなく、僕たちにとっても素晴らしい成果になるはずだよ」梅野くんは、目を輝かせながらそう言った。
その言葉に、理科室の空気が熱を帯びた気がした。
越川さんは、嬉しそうな表情を浮かべていた。「この香水は、私たちの誇りだもの。父に、自信を持ってレポートを提出できるわ。最後の仕上げで、どんな香りになるのか想像すると、ドキドキが止まらないの」
その瞳は、未来を見つめるように輝いていた。
「なんだよ、みんなすごく楽しそうじゃないか。僕も混ぜてくれよ!」 日景くんが、照れたように笑いながら言った。――こうして、彼も僕たちのチームに加わった。
コーヒーを入れ直すため、もう一度キッチンに向かった。掛け時計は、5時15分を指している。
勉強部屋に戻り、カーテンを引いて窓を開けてみた。冷たい空気が、温まりかけていた空気と入れ替わる。その瞬間、身がきゅっと締まるような感覚に襲われた。暗かった空は、うっすらと白み始めている。僕は今、夜と朝の境目に立っている。
摩耶家の家族には、良い時も悪い時も本当にお世話になった。とりわけ、少年の母親には、いつも厳しく鍛えられてきた。時には、おかずなしの白ごはん弁当を持たされることもあった。ヒステリックとも思える、親子のせめぎ合いに巻き込まれたこともあった。 でも今では、それも彼女なりの愛情だったと思える。
3月7日の夕刻、津々木捜査官と真鳥さんは、2060年の未来に帰還した。捜査官は、懸案だった小津を逮捕して、彼の組織を壊滅させることに成功した。ようやく家族のもとに戻れることが決まり、彼はどこか晴れやかな表情を浮かべていた。
「いやー、今回の捜査は長かったべ。やっと家に帰れるようになった。警察庁のスタッフも喜んでるべ。これも鹿間くんたちの協力があってのことだべな。落ち着いたら、2060年の世界に遊びに来てけろな」彼は、笑顔でそう言い残した。
こうして、津々木家の人々は未来へと旅立っていった。けれど、彼はこの世界で関わった人々の記憶から、自分たちの存在を消去することを忘れなかった。
真鳥捜査官は、未来の犯罪者を追うにはアキラが必要だと、何度も彼に言い聞かせていた。アキラは、沖縄で偶然見つけた古代遺跡から得た装置によって、時間旅行の能力を手に入れていた。でも、彼は未来へ行くことに対して、強い恐怖と嫌悪を抱いていた。
それでも、真鳥さんの熱心な説得に根負けするようにして、しぶしぶ2060年の世界へと旅立った。彼の背中には、まだ迷いが残っているように見えた。
3月9日。僕は、赤江瀑先生の家にある書斎へと案内されていた。
先生は、僕が心から尊敬する作家だった。小説だけでなく、時空間理論にも深い造詣があり、これまでに多くの知識と助言を授けてくれた。
何よりも忘れられないのは、先生が自らタイムマシンを操縦し、時間旅行を実践してみせてくれたことだ。あの時の衝撃と感動は、生涯、僕の記憶から消えることはないだろう。
書斎の窓からは、早春の関門海峡が見渡せた。穏やかな潮の流れの中を、いくつもの船がゆっくりと行き交っている。先生は窓辺に腰掛け、海峡を眺めながら、さまざまな話をしてくれた。
「この海峡はね、私にとって特別な場所なんだ。君は君で、特別な場所である未来へ行く時が来たようだね。また会えることを楽しみにしているよ」
これが、先生から僕への最後の言葉だった。涙で滲んだ視界の中、先生の姿はゆっくりとぼやけていった。
終業式を来週に控えた3月14日。理科室に集まったメンバーは、完成したと思われるボトルを囲んでいた。
最初に作ったボトルと、配合はほとんど変わらないのに―― その香りは、明らかに芳醇さを増していた。
「このボトルは完成品だな」僕がそう言うと、梅野くんは首をかしげながら言った。 「跳躍して検証してみなければ、分からないだろう?」
「大丈夫! 実は昨晩、弟に連絡を取ったんだ。敢太が新しく入手した極秘のレシピと照らし合わせたら、完全に一致していたんだ」
そう打ち明けると、梅野くんは納得したような表情を浮かべた。
「摩耶くん、よかったね。でも、いつかまた会える日が来るわよ。それまで楽しみにしているわ」越川さんは、優しく微笑みながらそう言ってくれた。
「時間旅行に興味が湧いてきたよ。もっと勉強して、いつかタイムマシンを作ってみようかな?!」日景くんは、笑顔を浮かべながら声を弾ませた。
愛原さんは、心配そうな顔で僕に問いかけてきた。「”時をかける少女”では、未来人の主人公が元の時代に帰るとき、関わったすべての人の記憶を消したでしょ? 摩耶くんも、そうするの?」
「僕には、そんな高度な技術なんてないから、記憶を消したりはしないよ。それにね、元の世界に戻るもうひとつの目的は―― どこかへ行ってしまった摩耶浩之くんの意識を、一刻も早くこの体に戻すことなんだ」
僕は、言葉を切ってから続けた。
「来週の終業式までに、この世界から僕は消える。そうすれば、摩耶浩之くんの意識は元通りになるんだ。
でも、彼はこの2年近くの記憶を持っていない。もし彼が困っているところを見かけたら、助けてくれると嬉しいな。だから僕が消えた後も、みんなの記憶は残っていてほしいんだ」
梅野くんは真剣な表情でうなずいた。「鹿間陵汰くん。これからの摩耶浩之くんのことは、僕たちに任せてよ。なんといっても彼は、近所三人組のオリジナルメンバーだからね」
そう言って、梅野くんは僕と固い握手を交わしてくれた。その手の温もりが、僕の胸の奥にじんわりと広がっていった。
理科室を出て教室に戻ると、南校舎からギターの音色が聴こえてきた。それは、十川くんと桜坂くんによる夕暮れの演奏会だった。持ち歌は以前よりも増えていて、聴衆は教室に入りきれないほどの賑わいだった。
その中に、長谷寛人くんの姿があった。彼は僕に気づくと話しかけてくれた。
「風の噂で聞いたんだけど、もう未来に帰るらしいね。僕だったら、70年間を何度も楽しんでから元の人生を送るけどね。まぁ、人それぞれだから、君の好きなようにすればいいってことだな。少し寂しいけどね」
それは、長谷くんらしい、飾らないはなむけの言葉だった。軽く笑いながらも、どこか優しさが滲んでいた。
机の置時計を見ると、時刻は5時50分。夜が明けて、静かな朝を迎えている。
少年の母親が、鼻歌まじりに朝の支度を始めたようだ。キッチンからは、ガチャガチャと食器の音が響いてくる。その音が、どこか懐かしく思えた。
何度となく悩んだ。僕はいつも、元の世界が恋しかった。
『星霜に棲むという覚悟』を、どうしても受け入れられずにいた。その道を選んだ人たちが数多くいることを知っていたにもかかわらず――なかば永遠の命を授かって暮らす人までいる。今は受け入れられなくても、いつか考えが変わるかもしれない。
僕は、名古屋に住む相川さんと、人生について、これまで何度も議論を重ねてきた。そんな相川さんには、3月20日に旅立つことを手紙で伝え、別れを告げた。言葉にできない思いが......書ききれぬ気持ちが......便箋の余白を埋めていった。
そうだ、敢ちゃんにも連絡を入れよう……。
『あと10分で帰るからね。ようやく会えるなぁ。ねえ敢ちゃん、夏休みに入ったら2人で実家に帰ろうよ。久しぶりに、家族みんなで地元名物の”えびめし”を食べたいんだ』
『それはいいね! でもそれだけじゃ物足りないな。僕は”デミカツ丼”も追加するぞ!』
『食いしん坊くん。それから、南米のリゾート地に行ってみないか? リオデジャネイロの“コパカバーナ” ※57で、日光浴できたら最高だよ』
『でも、どこも海洋汚染されているから、海には入れないよね? それよりも、キューバのハバナで異国情緒を味わってみたいな』
僕たちの会話は、まるで地球儀を回すように、世界を自由に旅していた。
『だったらこれはどうだろう? ニューヨークのマンハッタンにあるクラブ、”コパカバーナ”でカクテルを楽しむってのは……そこは踊れるし、ビュッフェもあるから、お腹いっぱいにもなれるよ。それにね―――』
次の下り列車が汽笛を鳴らすとき、僕は元の世界へ戻ると決めていた。別れと再会を告げる、旅立ちの音色が――もうすぐ聞こえてくるはずだ。
――3月20日、木曜日。午前6時23分。勉強部屋の机に座ったまま、僕はひとり、静かにこの世界を去っていった。
★――――――――――――――――★
※56 「DD51形」は、日本国有鉄道によって1962年から1978年にかけて製造された液体式ディーゼル機関車。
※57 コパカバーナビーチは、リオデジャネイロにある全長4kmにわたる白い砂浜。 1978年にバリー・マニロウが発表した楽曲では、その名にちなんだニューヨークのナイトクラブ、『コパカバーナ』での出来事を歌っている。この曲は1979年のグラミー賞を受賞した。このビーチの名前をとったライブハウスは、1940年にオープンした歴史あるクラブ。 ラテン音楽やサルサダンスを楽しむことができ、ビュッフェやドリンクが提供されている。しかし残念ながら、2020年に新型コロナウイルスの影響で一時的に閉店した。再開の予定は不明。
The End Credits Song Is Copacabana.
星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
第46話 電気分解
1975年2月13日 木曜
10年後の未来から、1975年に戻って3日目の朝を迎えた。
今朝も、近所4人組のうち2人が玄関の外に立っていた。昨日、僕は学校で生徒名簿を確認してみた。目の前にいる女子生徒の名前は——山本遊羽恋(やまもと・ゆうこ)さん。早志くんと同じ、2年6組。
梅野くんの家に向かう途中、早志くんが僕の“寝ぼけ癖”について話し始めた。
「先週の木曜、夕方6時半だったよ。俺、英語塾に行く前に自転車で摩耶んち寄ったんだ。チャイム鳴らせば、いつもならすぐ玄関が開くのに、その日は全然気配がなくてさ」
早志くんは、ちょっと笑いながら続けた。
「もう一回、鳴らしたらさ、家の奥から“ドドドドッ”て足音がして、摩耶がすっ飛んできたんだよ」
僕は苦笑いしながら、心の中で小さくため息をついた。
「摩耶ってさ、塾に行く前はいつも仮眠するんだ。あの日も寝てたみたいなんだ。で、パジャマ姿で飛び出してきてさ。俺の顔見るなり、いきなりだよ。
『隕石が落ちたよね? 地球はどうなったんだ! みんな大丈夫?』
...って、血相変えて叫ぶんだよ。俺、もうポカーンだよ。何言ってんのか分かんなくてさ。摩耶はそのあと、部屋の中を右往左往して……俺はただ、呆然と眺めてた」
山本さんは、うつむきながら歩いていた。僕は彼女を横目で見つつ、歩調を合わせる。……やっぱり、笑いをこらえている。
すると早志くんが、何気なく言った。
「山本さん、摩耶ってちょっと変だと思わない? 授業中でも、この癖で先生を驚かせるからな」
その言葉を聞いた瞬間、山本さんはこらえきれずに吹き出した。そして、梅野家のチャイムを押すまで——彼女の笑いは止まらなかった。
学校でも、家でも——どこか違和感がつきまとう。大筋の流れは同じなのに、細かなところが少しずつ違っていて……そのズレが、じわじわと頭を混乱させる。
何度も弟の敢太に連絡を試みるけれど、返事はなかった。
敢太ならきっと助けてくれる——そう信じることで、焦りの波を少しだけ静めることができた。僕は、まだこの世界に飲み込まれてはいない。そう思いたかった。
未来から戻ってきて、4日目。
今日は2月14日——バレンタインデーのはずだった。でも、教室にも廊下にも、そんな雰囲気はまるで感じられない。
休み時間、4組の桜坂くんが廊下に出ていたので、声をかけてみた。
「ねえ、今日って……バレンタインデーだよね?」
桜坂くんは、あっさりと答えた。
「うん。年に一度、男子が女子に告白できる日だな」
「……えっ、逆じゃない?」
僕は思わず声を上げた。
——まただ。
また“似て非なる現象”が現れた。細かい違いが、いくらでも出てくる。いちいち気にしてたら、頭がどうにかなりそうだ。
「あーもう、嫌だ……!」
僕がそうぼやくと、桜坂くんは肩をすくめて、両手を広げながら首をかしげた。
まるで、「何をそんなに大げさに?」と言いたげに。
戻ってから6日目、2月16日。いつもと変わらない、静かな日曜の朝だった。
玄関のチャイムが鳴ると、少年の母親が声をかけてきた。
「梅野くんが来てるわよ!」
僕が扉を開けると、そこには苛立った様子の梅野くんが立っていた。
「こんな朝早くから、どうしたの?」そう聞くと、彼は眉をひそめて言った。
「何してるんだよ! 今日は赤江先生の家で、マシンに乗せてもらう日だろ?」
僕は一瞬、言葉を失った。
——その約束、完全に抜け落ちていた。この世界の“僕”が交わした約束を、僕は知らない。それも、またひとつのズレだった。
「そうだった? ……いや、そうだよね。すぐに仕度するから。あっ、先生に電話しなきゃ」
「なんでだよ。この前、先生に了解もらったって言ってただろう?」
たぶん梅野くんは、『摩耶の寝ぼけ癖、いよいよ重症だな……』って思ってたに違いない。
僕たちは急いでバスに乗り、赤江先生の家に向かった。バスの中で、梅野くんがぽつりとつぶやいた。
「今日は……激しい戦いになるのかな」
——“戦い”って、どういう意味だ?
『そうか……そのために、先生のマシンに乗せてもらうのか』
僕の脳裏に、ひとつの記憶がよみがえった。
——真実の世界では、先月の1月26日に“船上決戦”が行われた。
でも、待てよ。
この世界だと、同じ結末になるとは限らない。いや、むしろ——違う可能性のほうが高い。僕の胸の奥に、じわじわと嫌な予感が広がっていく。
雪が降りしきる中、橋の上に停車した車両のまわりに立っていた7人の姿が、突如として消えた。バイクにまたがっていたアキラの姿も、同じようにかき消える。
マシンのモニターには、船の甲板が映し出されていた。
そこでは、すでに戦いが始まっていた。
——ここまでは、あの“1月26日”と同じだった。
先生がマシンを操り、甲板付近へと移動させる。モニターに映るその場所では、壮絶な銃撃戦が繰り広げられていた。敵はマシンガンを手に、容赦なく捜査官たちに銃弾を浴びせている。
その数——なんと20人。
津々木捜査官が予想していた人数の、倍だ。これでは、多勢に無勢。勝ち目など、あるはずがない。
隣でモニターを見つめていた梅野くんは、「……こんな悲惨な光景、見たくなかった」と元気なくつぶやいた。
真鳥さんは、船内に仕掛けられた爆弾を抱え、海へ投げ捨てようと甲板を駆けていた。その瞬間、アキラが危険を察知し、真鳥さんの腕から爆弾を片手で奪い取ると——バイクごと、甲板から海へ向かってジャンプした。
だが、すでに手遅れだった。
爆弾は空中で炸裂し、轟音と閃光があたりを包み込む。真鳥さんは爆風に巻き込まれ、甲板に叩きつけられた。破片が身体中に降り注ぎ、彼は動かなくなった。
一方、アキラは爆発の直前にテレポート——瞬間移動を使い、間一髪で危機を回避したようだった。
この大混乱のさなか、甲板の上に突然、学生服姿の少年が現れた。よく見ると、2年1組の河内摂(かわうち せつ)くんだった。クラスメイトの彼は、銃撃の嵐にも動じることなく、左手を腰に添えて静かに立っている。そして右手に握った木槌を、ゆっくりと円を描くように左右に振り始めた。
その瞬間、彼の周囲に楕円状のエネルギーフィールドが展開される。未来の防御技術――“シールド”だ。敵は突如現れた彼に向かって、容赦なく銃弾を浴びせるが、シールドはそのすべてを弾き返していく。
摂くんは木槌を振り上げると、ためらいなく水平に振り下ろした。すると、木槌の先端から鋭いレーザービームが放たれ、敵の一人に命中する。彼はそのまま次々と敵を倒していく。まるで舞台の主役のように、静かに、確実に。
敵の一人が叫んだ。「おい! あのハンマー男には気をつけろ! だが、当たっても一瞬気絶するだけのようだぞ。だったら恐れることはない!」
船はやがて港に接岸し、密輸品の荷下ろしが始まった。だが、そこは下関港ではなかった。――門司港だった。
岸壁にはすでにトラックが待ち構えていて、敵は手際よく荷物を積み込んでいく。そして最後に、小津が運転席に乗り込むと、何のためらいもなくエンジンをかけ、トラックは唸りを上げて港を離れていった。
操舵室では、津々木捜査官が血を流して倒れていた。梅野くんと僕は、銃撃戦で負傷した津々木さん、真鳥さん、他4人の捜査官たちをマシンに乗せ、止血や応急処置に追われた。
先生は無言で操縦席に座ると、マシンを病院へ向けて全速で飛ばしてくれた。アキラもすぐにバイクにまたがり、病院への道を急いだ。
――処置室のドア上部にあるランプが消えると、担当医から説明があった。
「銃弾の除去と止血は完了しました。創傷部には抗菌剤を投与してありますので、命に別状はないでしょう。ただし、これは4名の方に限った話です。
残る2名については、服には銃弾や爆発物の破片が貫通した痕跡があるにもかかわらず、体内には弾も破片も残っておらず、出血すら見られません。信じがたいことですが――まったくの健康体です」
「そうだった!」僕は思わず声を漏らした。津々木さんと真鳥さんの身体はアバターだ。だからこそ、自動回復機能が作動して、病院に着いた時にはすでに無傷だったんだ。
それでも――悪い予感は的中した。船上での決戦は、どこか後味の悪い終わり方だった。僕はふと考える。この世界に馴染んでいけるのだろうか。このパラレルワールドの住人として――。
憂鬱な日曜の夜。ザラザラとした雑音のあと、頭の中に声が響いた。
『陵汰兄ちゃん! 聞こえるかい?』
僕は思わず椅子から立ち上がった。高ぶる気持ちをなんとか抑えながら、声を返す。
『敢ちゃん…! ようやく繋がったんだね。ずっと、連絡があるって信じてたよ』
『遅くなって、ごめん。兄貴の連絡が途絶えたとき、もしかして並行世界に入り込んだんじゃないかって疑ったんだ。
でも、兄貴が持ってるチップの識別信号を捕えるのに、かなり手こずってしまって…。それに、並行世界からの脱出方法も探してた。生物工学研究所のサーバーに、もう一度ハッキングをかけたよ。そしたら、今まで気づかなかった裏データにたどり着いたんだ。
僕はすっかり騙されてた。制御システムの核心部分が、別ファイルに移されてたなんてね。でも、強固なセキュリティを無効化して、ついに解読に成功したよ』
『やったな、ありがとう! お礼に――8月30日の誕生日、好きなだけビッグマックを買ってあげるよ』
僕がそう言うと、弟はすぐに真剣な口調で続けた。
『課題は2つあるよ。ひとつは、パラレルワールドから元の世界に戻る方法。そしてもうひとつは、二度と並行世界に迷い込まないための対策だ』
弟は順を追って、落ち着いた声で説明してくれた。
『じゃあ、1つ目の話をするね。ちょっと信じがたいかもしれないけど――並行世界には“時空の管理人”がいるんだ。都市伝説とか噂話のレベルでは、けっこう有名な存在らしくて、“時空のおっさん”って呼ばれてる。作業着にヘルメット姿で、態度は横柄でぶっきらぼう。『来るな!』とか『なんでここに来たんだ!』って、大声で怒鳴るらしいよ。
でもね、もし彼に会うことができれば――本来の世界に戻してもらえる可能性があるんだ。――実はね、“時空のおっさん”って、2400年代に製造された超高性能AIロボットなんだ』
『このロボットは、あらゆる並行世界に派遣されていて、遭難者を日夜救助してる。西暦2300年代までは、並行世界に迷い込んだ人を検知すると、政府が担当官を派遣して助ける仕組みだったんだけど、それをもっと効率化するためにAIが導入されたらしい。
識別番号は『クロノスC―931』。覚えておいてね。もし会えたら、たぶん『もうここには来るな。二度目はないぞ』って怒鳴られるかもしれないけど、それは口が悪くプログラムされてるだけだから、気にしなくていいよ』
『興味深い話だね。それじゃ、一刻も早くその人に会わなきゃならないな』
僕がそう言うと、弟は笑みを含んだ声で答えた。
『そうだね。でも、焦らなくても近いうちに彼は現れると思うよ』
そして、弟は話を続けた。
『じゃあ、2つ目の話だよ。兄貴たちが調合した制御物質――アンバーグリスを精油にする時、溶剤抽出を使ったよね? それでもタイムリープは可能なんだけど、今回みたいに並行世界に迷い込むことが、たまに起きてしまう。
それを回避するには、電気分解したアンバーグリスを使って調合すればいいみたい。そうすれば、並行世界への誤作動は起きないはずだよ』
翌日、登校して1組の教室に入ると、僕はまっすぐ河内摂くんの席へ向かった。摂くんは椅子に座ったまま、静かに僕を見上げる。
僕は彼に声をかけ、教室を抜けて廊下の端まで連れ出した。
「摂くん、昨日は本当にすごかったね。あの木槌――ただの道具じゃないよね。どうしてシールドを張れたり、レーザービームまで撃てるんだ?」
「あぁ、そのことかい?」摂くんは首をかしげながら答えた。「あの木槌は、知り合いのおじさんからもらったんだ。『いざという時は、これを使いなさい』ってね。おじさんは他にも、いろいろ便利なものをくれるんだよ」
彼は僕をじっと見つめたあと、感情を抑えながら続けた。
「そういえば、君って…違う世界から来た人間のようだね。僕は匂いでわかるんだ。もし君が、本来の世界に戻りたいと思ってるなら――昼休みに、おじさんを呼んでこようか?」
昼休み、僕は摂くんに言われた通り、正門へ向かった。そこには、冬だというのに真っ黒に日焼けした、ヘルメット姿のおじさんが立っていた。
「なんだ、戻りたいってのはお前か? まったく、手を焼かせる奴だな。軽はずみなことするから迷い込むんだ。いいか? もう二度と来るんじゃねえぞ!」
そう言い終わるや否や――僕の視界は一瞬、真っ白になった。
次の瞬間、僕は2月11日、建国記念日の午後9時に跳ばされていた。ここは、僕がいるべき本来の世界。そうでなければならない。
翌日、授業が終わったあと、僕は津々木捜査官の家を訪ねてみた。玄関前の庭には、母親役の和子さんがひとり、静かに立っていた。
「捜査官は、小津容疑者を護送して未来に行ってるわよ」彼女はそう教えてくれた。
――小津が逮捕されているこの世界。パラレルワールドでは、門司港から車で逃走していたはずだ。ならば、ここは間違いなく“本来の世界”だ。
和子さんとしばらく話を交わしたあと家路についた。夕暮れの街を歩きながら考えた。
『調合をやり直せば、きっと元の世界に戻れるはずだ。そのためには――電気分解装置が必要だな。念のため、設計図も書いておこう』
そうつぶやきながら、頭の中で必要な部品を思い浮かべる。材料費もそれなりにかかりそうだ。…となると、あれしかない。
『少年の母親に、来月のおこづかいを前借りするしかないか』
翌朝、梅野くんに相談してみた。
「未来へのタイムリープを試してみたら、不具合が見つかったんだ。それを解決するには、アンバーグリスを電気分解して調合する必要がある。理科室に電気分解装置って、あるかな?」
梅野くんは少し考えてから首を振った。
「う〜ん、学校には無いね。どうしたものかな…」
「だったら、装置を自作するしかないか」つぶやくように僕が続けた。
すると梅野くんは、ふと思いついたように言った。
「こういうの、5組の日景一洋くんが得意だよ。彼にお願いしよう。それに、理科室の使用期限はもう過ぎてるから、七島先生に頼んで期末テストまで延長してもらうね。明日の放課後、みんなで理科室に集合しよう!」
星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
第45話 パラレルワールド
1975年2月11日 火曜
弟の敢太にハッキングを頼んだのは、1月8日のことだった。それから12日後、彼はようやく第一報を届けてくれた。ハッキングはそう簡単なものじゃなく、かなり苦労したに違いない。
『なんとか情報を手に入れて、ひとまずホッとしたよ。それにしても、兄貴の勤めてる会社はガードが堅いね。しかも、本来サーバーにあるはずのデータは、すでに国に没収されてたんだ。正直、万事休すかと思ったよ。でも、あきらめなくてよかった。会社がその没収データを、密かに復元してるのを突き止めたんだ。おかげで、制御物質の成分や作り方、操作方法までダウンロードできた。残りの情報については、もう少しだけ時間をもらえる?』
僕は、薬剤をどのように調合したのかを弟に伝え、それがデータと一致しているかを確認した。さらに、制御物質の操作方法についても教えてもらった。
すると弟は、驚きと感心を込めてこう漏らした。
「信じられない! 全く問題ないよ。レシピもなしに、よくここまで作ったもんだな」
2日後の1月22日の夜、僕は10分間のタイムリープに成功したことを弟に報告した。 敢太は解析の最終段階に入っていて、必要な情報も揃ったらしく、続報を説明すると言ってきた。
『調べれば調べるほど、会社の闇の深さに気づいて、怒りで身が震えたよ!
タイムリープって、昔から知られてはいたけど、ずっと空想の域を出なかった。でも、それを科学的に解明したのが、兄貴の勤める“キュビットシステム”なんだ。会社は2040年に開発プロジェクトを立ち上げて、生物工学研究所を主幹部署にしたって記録されてる』
『会社がプロジェクトを立ち上げた動機は、いったい何だったのかな?』
『それは――2035年に遡る。ある若き植物学者が開発した培養装置が、植物の成分を使って時空を飛び越える現象を引き起こすことに気づいたんだ。装置から放出される緑色に光るエネルギーに触れると、過去や未来へと移動できたという。彼はこの世紀の大発見を公表しようとした。ところが、会社が雇った集団に襲われて拉致されてしまう。その後、研究所に閉じ込められて、時間旅行の完成度を高める研究を強制された――』
『2040年、完成の目途が立った会社は、世間に向けて「タイムリープを開発した」と公表した。こうして、自社開発という有利なアリバイを作り上げたんだ。その後、治験を開始して、2043年10月に完成させた。あの植物学者は、いつしか闇に葬られてしまったようだね……」
『……言葉が出ないよ。成果を盗むだけじゃなく、人の命まで奪うなんて……。小津の研究チームによる犯行かと思ってたけど、会社ぐるみだったとはね』
『会社ぐるみ? 兄貴、それじゃ甘いよ。政府が絡んでる。つまり、国ぐるみってことさ。この事実を知ったとき、ハッキングした僕自身が狙われるんじゃないかって、震えが止まらなかったよ』
『驚くべき話だね……。ところで、小津は生物工学研究所にいたと聞いている。小津少年に“意識スライド”した人物は、もう分かったのかい?』
『うん、すぐに判明したよ。 2015年9月11日生まれ、2040年4月入社。所属は生物工学研究所。この条件に一致するデータは、たったひとつだけだった。名前は石田都茂矢。兄貴が通ってた大学を卒業した4年先輩で、院卒だから会社では2年先輩になるね』
『石田さんだったとはね……。彼は“逸材”と呼ばれていて、社内でもかなり期待されていた研究者だったんだ』
『でも、そんな彼が研究スタッフを巻き込んで違法なことに手を染めたんだ。理由は、システムの検証があまりにも困難だったから。被験者が一人も集まらず、治験なんてできるはずもなかった。そりゃそうだよ。過去や未来に行って、現代に戻ってくるかどうかを検証するんだから……。戻れない可能性だってある。そんな治験に、誰が応募する?』
『石田さんは、厳しいノルマに追い詰められていたんだな……』
『治験っていうのは、本来、新薬の効果や安全性を確認するための臨床試験だ。被験者には目的や内容をきちんと説明して、同意を得る必要がある。でも、彼が何をしたと思う? 十分な説明もせず、嘘をついて同意を取っていたんだ。
それだけじゃない。目をつけた社員には、説明すらせずに、強引に治験を実行した。その結果、行方不明になった人は、たった3年で被験者が18人、社員が14人にものぼる。
親族が捜索願を出しても、会社は事実を隠し続けた。しかも、プロジェクトを支援している政府が、警察に圧力をかけて捜査を妨害していたんだ――』
『――目をつけられた社員は、知らないうちに薬剤を体に塗られていた。そして、研究グループが制御物質に向けて起動データを送ると、タイムリープが実行される。同時に、被験者のデータはチップを通じて収集される。人体のデータさえ手に入れば、被験者がどうなろうと構わない――そんな考え方だったんだ』
『……多くの犠牲を払って、完成させた制御システムなのか……』
『こうしてタイムリープの制御技術が確立されたことで、“タイムリーパー”が誕生した。 その後、石田都茂矢は研究所から大量のデータを盗み出して退職した。僕の持ってる情報は2045年までだけど……その後、彼がどんな道をたどったかは、兄貴のほうが知ってるんじゃない?』
『そうだな。敢ちゃんのおかげで、ようやく全体像が見えてきたよ。それと、相川さんがこう言ってた。“タイムリープは倫理観と技術の重要性から、国の管理下に置かれたって』
『うん、その通り。会社の特許権も剥奪されたみたいだしね。まあ、自業自得ってやつだよ……。ふぅ~、なんだかお腹減ってきたなぁ。ビッグマックでも食べよっかな』
それから数日が経った頃、僕は試しに“半年前”に跳んでみた。さらに2月に入ってからは、“1年前”にも挑戦した。けれど、どちらの時点でも特に引っかかるものはなかった。
あとは——“未来”への跳躍が成功すれば、制御物質は完成したと言える。
そう思うと胸が高鳴った。でも、油断は禁物だ。この世界は、僕の知っている時間軸とは違う。何が起きても不思議じゃない。
未来へ跳ぶ日は、2月11日——建国記念日の夜9時に決めた。操作手順をもう一度確認してから、弟に連絡を入れる。
「これから10年後に跳躍してみるよ。もし何かあったら、すぐ連絡するから」
メッセージを送ったあと、僕は深く息を吐いた。
―――こじんまりとした部屋の壁に、1985年のカレンダーが貼られていた。テレビの電源を入れて、チャンネルを回す。NHKでは、東京・ホテルニュージャパンの火災について解説していた。※51
テーブルの上に置かれた新聞を広げると、日付は「1985年2月11日」。
……どうやら、10年後への跳躍は成功したらしい。
この時代の“摩耶浩之くん”は、24歳の社会人になっていて、ワンルームで一人暮らしをしているようだった。
新聞をめくると、札幌冬季オリンピック ※52の特集が目に飛び込んできた。その隣には、メジャーリーグで活躍する鈴木イチロー選手 ※53の記事。さらに、テイラー・スウィフト ※54が年間最優秀アルバム賞など4部門を受賞したという見出しもあった。
……いや、待て。
札幌オリンピックは1972年のはずだし、イチローがメジャーで活躍するのはもっと後の時代だ。テイラー・スウィフト? 彼女がデビューするのは、確か2000年代に入ってからじゃなかったか。
僕は新聞を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
これは——本当に1985年なのか?
狭い部屋を見渡すと、SONY製のビデオデッキが置かれていて、棚には音楽系のビデオテープがずらりと並んでいた。僕が手に取ったのは、マイケル・ジャクソン ※55の『スリラー』。
14分間の映像と音楽は、今見ても驚くほど斬新で、心を揺さぶられた。
いくつかのビデオを見終えたあと、僕はベッドに入った。
部屋の明かりを落とした瞬間、胸の奥がざわついた。
言葉にできない違和感。何かが、確実に違う。
でも、その正体は掴めないまま——僕は一睡もできずに朝を迎えた。
翌朝は、雲ひとつない冬の青空が広がっていた。空気は冷たいけれど、思ったほど寒くはない。
僕はマンションの周辺をぶらぶらと歩き、部屋に戻ってからはテレビやラジオをつけて、静かに時間を過ごした。
午後になって、僕は“10年前”——1975年に戻ることにした。
跳躍先は、出発したあの日と同じ、建国記念日の夜9時を少し過ぎた頃の勉強部屋。
机の上には、見慣れた教科書とノート。でも、どこか遠く感じる。しばらくすると、急に眠気が押し寄せてきた。僕はベッドに潜り込み、目を閉じた。
翌朝、朝食を終えて、いつものように玄関の扉を開けた。そこには、早志くんと、ひとりの女子生徒が立っていた。
「2人で迎えに来てくれたんだ。今日はどうしたの?」僕が少し驚いたように声をかけると、早志くんは眉をひそめて言った。
「おまえ、また寝ぼけてんのか? 意味わかんねぇこと言うなよ。俺たちはいつも通り来ただけだぞ?」
……僕は、何も言い返せなかった。
梅野くんの家に着くと、女子生徒——山本さんが、玄関のチャイムを押した。
「おはよう!」扉が開いて、梅野くんが顔を出す。
「山本さん、犬に噛まれたって聞いたけど……学校、休まなくて大丈夫?」
心配そうに彼女を見つめる梅野くんに、早志くんが笑いながら言った。
「山本さんはいつも元気だから平気だよ。それに、ひとりでも欠けたら“近所4人組”じゃなくなるしな」――
僕は、膝から崩れ落ちそうな衝撃を受けた。
——予感は、当たっていた。やっぱり、ここは“似て非なる世界”なんだ。
1975年から10年後へ跳躍したあの瞬間、僕はすでに“パラレルワールド”に迷い込んでいた。並行世界に入り込むと、二度と元の世界には戻れないという——
通学の途中、弟の敢太に連絡を試みたけれど、反応はなかった。
僕の焦りは、もう限界に近かった。そんな僕の顔を、早志くんがのぞき込む。
「お前、顔色悪いぞ。……よっぽど体調悪いんだろ。保健室、行くか?」
★――――――――――――――――★
※51 ホテルニュージャパンは、1982年(昭和57年)2月8日未明に発生した火災により全焼して廃業に追い込まれた。
※52 札幌冬季オリンピックは、札幌市で1972年(昭和47年)2月3日から2月13日まで行われた。アジア圏では初の冬季オリンピックだった。
※53 鈴木イチローは、2000年11月30日に日本人野手として、初のメジャーリーガーになった。
※54 テイラー・スウィフトは1989年生まれで、2004年にソングライターとしてデビューしたカントリー・ポップ歌手。
※55 マイケル・ジャクソンは1958年生まれ。シンガーソングライター、ダンサー、ビートボクサーで、「ポップの王様」と称された。1982年に発表された『スリラー』は、世紀のモンスターアルバムと呼ばれた。
星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
第44話 船上決戦
1975年1月26日 日曜
愛原さんからボトルを受け取った津々木捜査官は、液体をこぼさないよう、慎重にボトルを鼻の近くに持っていった。鼻で静かに息を吸い込み、香りの特徴を確かめる。ゆっくりと息を吐きながら容器のフタを閉じると、手元のメモ帳に何かを書き始めた。
「んだな。だいぶ近づいてきたな。でも、甘みがちょっと足りねぇ。アンバをもう少し足してみてけれ」
「そうだね。僕も津々木くんの意見に賛成だよ。やっぱり、あの甘くてほのかに漂う香りが決め手になると思う」僕は、津々木捜査官の確信に満ちた言葉に、妙な安心感を覚えていた。
愛原さんはスポイトを慎重に扱いながら、ごくわずかに精油を加えた。僕と津々木捜査官は、交互に香りを確かめる。教室の空気が張りつめる中、みんなが息を呑んで見守っていた。やがて津々木捜査官は深くうなずき、ひと呼吸おいてから、静かに口を開いた。
「こりゃだ!やっと100点のもんができたべ!」
「しかまくん、あ、いや……まやくん。未来は、もうすぐそこだべさ。みんな、ようがんばったなあ」
メンバーたちは達成感に満ちた顔でガッツポーズを決めた。その様子を見ながら、梅野くんが感慨深そうに言った。
「抽出から調合まで、2週間もかかった。でも、ついに完成だ。摩耶くん、これからどう進める?」
「そうだね。制御物質が完成した以上、試しにタイムリープするしかない。みんなを危険にさらすわけにはいかないから、僕が実験台になるよ。まずは、この理科室で“10分前の過去”に跳んでみようと思う。
このあと、僕は一度消える。でもね、消えたと思ったら、10分後に姿が戻るはずだ。みんなよく観察してほしい。特に、窓側の棚の上に置いてある地球儀に注目して... 僕が戻ってきたとき、それが入口横の棚の上にあるはずだから」
捜査官に制御物質を塗ってもらった。ここからは、弟に聞いた手順通りに進める。頭の中で“跳躍”のための設定を組み立てていく。そして、キーワードに願いを込めた。
すると——僕の身体は、薄くなって消えていった――。
―――メンバー全員が、愛原さんの手元に視線を注いでいた。捜査官は深くうなずき、小さな声で『んだ、んだべ』とつぶやく。『やっと100点のもんができた!』その言葉に、みんなが一斉にガッツポーズを決めた。
そんな熱気の中、僕はひとり静かに動いた。窓際の棚から地球儀を手に取り、理科室の入口まで歩いていく。そして、入口横の棚の上に、そっと地球儀を置いた。
沸き立つメンバーたちは、誰ひとり僕の行動に気づいていない。
――――捜査官は穏やかな笑みを浮かべていた。けれど、メンバー3人は、僕が消えた床を心配そうに見つめていた。
「あっ! 摩耶くんが……少しずつ出てきたよ。まるでマジックショーみたい」越川さんが声を上げた瞬間、愛原さんが目を丸くして叫んだ。
「あれを見て! 地球儀が……」
彼女の指先は、入口そばの棚をまっすぐに指していた。
「地球儀が動いたってことは、成功の証だね。これも、みんなのおかげだよ」再び戻ってきた僕は、そう言って思わず微笑んだ。
「でも、まだ検証は続けなきゃ……それに、越川教授に提出するレポートも作らないとね」
その言葉を聞いた瞬間、メンバーは途端に困った顔を見せた。愛原さんが、少し戸惑ったように口を開く。
「私たちって……どこまで本当のことを書けばいいの?」
梅野くんは、落ち着いた口調で言った。
「僕たちの研究って、あくまで“新しい香料を作ること”だよね。ボトルは摩耶くんが必要だっただけじゃなくて、香りっていう副産物まで生んだ。それに、越川教授は愛原さんの要望以上の量を提供してくれた。せっかくだから余すことなく使って、みんなに喜んでもらおうよ。
そもそも、タイムリープのことをレポートに書いたって、誰も信じてくれないと思うし……。だったら、みんなで協力して“新製品開発レポート”を作ろうよ!」
「梅野くんは、ええこと言うな。すげぇよ、おどがめんけがったべ。うちで捜査官として働いてくれんべ?」
僕は笑いながら返した。
「津々木くん、このメンバーは信頼できるから、そろそろ標準語でもいいんじゃない? ちなみに『おどがめんけがった』っていうのは、『君のことが気に入った』って意味だね。……だからって、この場でリクルートするのは、ちょっと早すぎるな」
先月、12月6日、相川詩織さんから届いた手紙には、小津の最近の動向について、気になることが書かれていた。
『小津は言っていた。夏の沖縄で、配下を17名も失ったのは大きな痛手だったと。それに、密輸ルートを断たれて資金も底をついたらしい。だから、小倉の街に新たなアジトを構えて、組織の立て直しを図っているみたい。高収入をうたったアルバイト募集で人材を集めて、採用後は軍事訓練まで行っている。忙しい日々が続いているようで、授業が終わると、電車で小倉駅まで向かう毎日。寝る暇もないって言ってた。必ず汚名返上するんだって、まるで口癖みたいに繰り返してるよ』
小倉と下関を行き来するのに、わざわざ電車を使う必要なんてないはず……。 もしかして、空間移動装置が使えない事情でもあるのか? それとも、彼の懐事情が、それほど切迫しているのか――
翌日の昼休み、津々木捜査官は「大事な話だべ。2人だけで話をしよう」と言って、校庭の端まで歩くと、あたりを見回した。誰もいないのを確認すると「重大な情報を得たんだ! 小津の犯罪集団が近く麻薬を密輸するという。性懲りもない奴だが、真鳥くんが言うには大きな取引だという」
「彼は追い詰められていると聞いたよ。ここで挽回するつもりだね。それはいつ実行されるの?」
「4日後の1月26日だ。東南アジアから空輸した密輸品を、那覇港で貨物船に積み替える。貨物船は鹿児島を経由して豊後水道を通る。下関港には15時40分に入港するそうだ。集団は総勢20名。港で待ち受ける者が4~5名で、乗船して密輸品を監視する者は10数名だろうと見積もっている。奴らが乗船するのは鹿児島港だという。小津は過去の失敗を悔いて、今回は自ら乗船して陣頭指揮に立つようだ」
「こちらの体制はどうなんだろう。十分に整うのかな?」
「この機会を逃すわけにはいかない。今度こそ小津を現行犯逮捕して裁きを受けさせるつもりだ。水上警察署の捜査官4名を中心に我々警察庁の職員が3名。それに沖縄麻薬取締支所からアキラが応援に駆けつける。これで8名の精鋭が揃うことになる」
「アキラが来るんだね。早く会いたいな。超能力者が味方なら頼もしい限りだよ。それで僕は何をしたらいいの?」
「これはアンダーワールドとの最終決戦だ。君を危険な目に合わす訳にはいかない。当日は、関門橋から貨物船の通過を見計らって、甲板上に飛び降りて急襲するつもりだ。君は小高い山の上で、高みの見物でもしてくれたまえ」―――――
―――――予定だと、あと10分で貨物船が橋の下を通過する。1月26日、14時50分。 朝から吹雪いていて、今日はあいにくの天候だった。海峡の中でも最も狭い地点に架かる橋に向かって、玄海灘から風雪が次々と押し寄せてくる。吹き荒れる雪は容赦なく視界を奪い、捜査官たちにとっては最悪のコンディションだった。
津々木捜査官たちは橋の上に乗用車を2台停めて、貨物船が通過するタイミングを見計らっていた。僕と梅野くんは、赤江先生のタイムマシンに乗り込んでいる。昨晩、先生に電話で事情を説明した。『もし緊急事態が起きたら、マシンを救護車両として使わせてください』とお願いしたら、先生は二つ返事で了承してくれた。
今日は、タイムマシンを空間移動装置として使っている。感覚としては、ヘリコプターで空を飛んでいるような感じだ。早鞆の瀬戸を縦横無尽に飛び回ることに、先生も楽しまれているようだ。
橋の上では、捜査官たちがその瞬間を待っていた。とはいえ、飛び降りるといっても、橋から海面までは61メートルある。貨物船の甲板上でも、おそらく53メートルはあるだろう。つまり、飛び降りるという行為は、ほぼ死を意味する。
津々木捜査官は、14歳のアバターから28歳の成人へと変身して、背広姿になっていた。耳に携帯通信機を当てながら、誰かと会話を交わしている。おそらく、警察庁の和子さんに、空間移動するメンバーの座標と開始時刻を伝えているのだろう。
一瞬にして、停めてあった車の周囲に立っていた背広姿の7人が、忽然と姿を消した。 ただそこには、バイクにまたがったアキラだけが、ぽつんと取り残されている。アイドリング状態だったバイクが、低く唸り声をあげた。アキラがギアを切り替えた次の瞬間、バイクは橋の上から飛び出し、真っ逆さまに海へと消えていった。
おそるおそるマシンのモニターに映る船の甲板に視線を移すと、そこにはバイクに乗って縦横無尽に暴れ回るアキラの姿があった。どうやら、甲板上までテレポート(瞬間移動)したらしい。
先生は、貨物船の甲板近くまでマシンを移動させた。そこで僕たちは、船上で繰り広げられる壮絶な光景を目の当たりにする。捜査官たちと敵との激しい銃撃戦が、甲板のあちこちで展開されていた。
小津はひとり操舵室に立てこもっている。捜査官たちは、船内を逃げ回る敵を一人ずつ制圧しながら、じわじわと操舵室へと迫る。
梅野くんと僕は顔を見合わせて、『とてもじゃないけど、僕らの出る幕じゃないね』 と、無言のアイコンタクトを交わした。
操舵室で、津々木捜査官と小津の一騎打ちが始まった。彼は、あえて素手で小津に立ち向かった。非道な犯罪者である小津に、憎しみを抱いているはずなのに——。
津々木捜査官は、小津とは同級生として、1年あまりを同じ学校で過ごしている。だからこそ、そんな小津に銃口を向けることが、できなかったのだろう。
真鳥捜査官は、爆弾が仕掛けられた船内に降りていった。敵の接近を察知した犯人たちは、起爆装置を起動させると、一目散に逃げ出した。真鳥さんは、とっさに爆弾を抱え上げ、甲板へと駆け出す。海に投げ込もうとしたとき、起爆までの残り時間は、ほんのわずかだった。
バイクが猛スピードで近づいてくる。アキラは、真鳥捜査官が抱えていた爆弾を左手でひったくるように取り上げると、甲板の端からバイクごと海にジャンプした。そして空中で爆弾を投下した次の瞬間、海面が大きく爆発し、水しぶきが高く舞い上がった。
あと数秒でも遅れていたらと思うと、僕たちは背筋が凍るような気持ちになった。アキラはバイクに乗ったまま、海中からゆっくりと甲板に上がってきた。まさに、超能力のなせる業だった。
操舵室では、小津が最後まで抵抗を続けていた。でも、津々木捜査官によって、ついに手錠をかけられる。
僕と梅野くんは、敵味方を問わず、銃撃戦で負傷した人たちをマシンに乗せていった。 手や足に銃弾を受けた人が6人もいて、僕たちは急いで傷口にガーゼを当て、圧迫止血をして包帯を巻いた。
港では、岸壁で待ち構えていた犯人たちがすでに確保され、救急車が数台待機しているという。僕たちはマシンで6人を港まで運び終えると、ひとまず役目を終え、貨物船が接岸するのを静かに待った。
「早鞆の瀬戸や巌流島は、源平の合戦や武蔵と小次郎の決闘など、古くから“対決の場”として人々の記憶に刻まれてきた。でも君たちは、そこに新たなページを加えたね。貴重な体験をさせてもらったよ。今日は、私の創作意欲を大いに刺激する一日だった」赤江先生は、感慨深げに語った。
小津は肩を落として、うつむき加減に下船してきた。僕の視線に気づくと、どこか後ろめたい表情を浮かべながら、黙って警察車両に乗り込んでいった。
そのあとを追うように、真鳥さんとアキラも船から降りてきた。
「It’s been ages. I’m delighted to see you again.」
(久しぶりだね。また会えてうれしいよ)と僕がアキラに声をかけると、
「This is my first visit to Shimonoseki, but I’m impressed by how nice it is. I’m enjoying it here.」
(初めて下関に来たけど、なかなかいいところだね。気に入ったよ)と、アキラは笑って答えた。
真鳥さんは肩をすくめながら言った。
「命拾いしたよ。アキラが助けてくれなければ、私はここに立っていない。さあ、今日の仕事はもう終わったようなもんだ。ほら、豊前田のラウンジが我々を呼んでる。アキラと私は行くが、摩耶くんたちはどうする? どうだい、女の子を紹介するよ?」
僕は困ったように、笑顔を作って答えた。
「タイムマシンのお話を、赤江先生にお聞きするので難しいです。それより、大活躍したアキラさんを、しっかりねぎらってあげてください」
星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
第43話 溶剤抽出法
1975年1月8日 水曜
寒い朝は、昔から苦手だった。目覚ましが鳴っても、体が布団から抜け出そうとしない。ぬくもりに包まれて、もう少しだけ眠っていたい――そんな甘い誘惑に負けそうになる。
突然、部屋のドアが勢いよく開いて、母親が入ってきた。
「鳴ってるじゃない! うるさくて仕方ないのよ。近所迷惑だって分からないの? 今日から学校なんだから、早く起きなさい!」
そう言い放つと、彼女は足早にキッチンへと戻っていった。
そうだ、今日は始業式だった。しかも、越川さんがアンバーグリスを持ってくる日だ。そのことを思い出した僕は、布団を蹴飛ばして勢いよく起き上がった。
母親の大げさで容赦ない叱責は、目覚まし時計よりもよっぽど効く。それにしても、この家は本当に寒い。暖房器具を一切使わないなんて、どんな修行だ。物価高に抗うための“節約生活”らしいけど、正直、ありがた迷惑だ。
温かい味噌汁とご飯をかき込んで、ふと居間に目をやる。テレビでは天気予報が流れていて、「今日は雪まじりの強い風が一日中続くでしょう」と告げていた。
玄海灘から吹き込む横殴りの風だけでも十分憂鬱なのに、そこに雪まで加わるなんて... 気が滅入る。いや、正直、外に出る気力が削がれる。
僕はため息をつきながら、学生服の下にセーターを着込んで、玄関を出た。外では早志くんが、いつものように無言で待っていた。
「これだけ寒いと、さすがにこたえるね」と僕が言うと、早志くんは肩をすくめて、ぼそりと返した。
「そうか? 寒いとか暑いとかって、所詮は人間の感覚にすぎないだろ。そもそも、この世界に意味とか目的なんてあるのか?」
やけに冷めた口調だった。朝の空気よりも、彼の言葉のほうがよっぽど冷たく感じた。
梅野くんの家に向かう途中、視界がぱっと開けて、中学校の校舎が遠くに見える場所がある。遮る建物は何もなく、田畑だけが広がっている。
その瞬間、吹きすさぶ風と横殴りの雪が容赦なく僕たちを襲った。
「なんだこれは! こんなバカげた寒さ、あるか? 顔が凍りつくぞ。氷河期でも来たんじゃないか?」早志くんは顔をしかめながら、冗談とも本気ともつかない声で言った。
僕は思わず笑ってしまいながら、こう返した。「熱くなりすぎた地球を冷やすために、氷河期も必要ってことさ」
冬休みの前日、デバイスチップがようやく復旧した。それをきっかけに、僕は弟の敢太と会話を開始した。
『敢ちゃん、どうして僕が行方不明だって分かった? そっちの世界には、研究所に勤務してる僕がいるはずだよね?』
『そうなんだ。でもね、なんか違和感があったんだよ。たとえば、僕の書いた論文に対して、以前とは違う意見を言ってきたりさ。言葉の選び方も、やたら抽象的で理屈っぽいんだ。 ちょっと大げさかもしれないけど、話し方がまるでAIみたいだ。人間ってさ、自由な意志とか倫理観で動くものだろ? だから僕、あれは陵汰兄ちゃんじゃないって思ったんだ』
『よく気づいたね。僕は70年前に飛ばされて、意識が他人の体に入り込んだ。それ以来、研究所にいる僕は、無意識が動かしてる状態になってる。
無意識の行動っていうのは、理由のない衝動とか、反射的な反応で起きるものらしい。 それに対して、意識が選ぶ行動は、目標とか価値観に基づいて決められる。
この違いこそが、人間らしさってやつなんだよ』
『研究所にいる兄貴が本物じゃないって思ったから、遠隔でチップをスキャンしてみたんだ。電気信号として記録された履歴を取り出して、大学のコンピュータで解析してみたら――わずかだけど、変化があった。
それが記録されてたのは、2043年6月29日、午前1時20分のデータ。ほんのかすかな揺らぎだったけど、あの瞬間、チップが2つに分岐したんじゃないかって思うんだ。
で、その8分後――1時28分。分岐した片方の電気信号が、突然消えてる。つまり、70年前に飛ばされた兄貴は、このときこっちの世界から完全に消えたってことなんだ』
『そうだったのか……。小津は僕を被験者に選んで、2043年6月29日午前1時20分――あの瞬間に実験を実行したんだ。研究者たちは、タイムリープに成功した僕の治験データをすぐに回収した。そして、証拠を隠すために、8分後には僕のチップとサーバーの通信を遮断した。徹底してるよ、まったく』
『でも僕は、その8分間に記録された電気信号を、量子コンピュータで解析したんだ。そしたら、兄貴のチップが特定できてね。そこからメッセージの送信が可能になった。……ほんのわずかな隙間だったけど、それで十分だった』
『チップが2つになってたのは、たった8分間だけ。だから政府も気づかなかった。でも今回の復旧で、チップの存在が検知されて……政府から警告メッセージが届いた。敢ちゃん、僕……どうすればいい?』
『それなら、研究所にいる兄貴のチップを遮断してみよう。しばらくは誤魔化せるはずだよ。心配すんなって――』
始業式が始まる少し前、梅野くんが教室の外から僕を呼んだ。
「理科室と実験室、やっと使用許可が下りたよ。放課後の1時間だけ使っていいってさ。だから、今日の放課後は理科室に集合。七島先生が時々様子を見に来るっていう条件付きだけどね」
放課後になると、理科室にメンバーが集まった。越川さんはアンバーグリスを持ってきて、机の上にそっと置いた。それは小さな浮石みたいな塊で、僕たちはしばらく黙って見つめた。ほんのり甘い土のような香りが漂ってきて、誰かが小さく息をのんだ。越川さんは、教授からの伝言だと言って、調合の手順を話し始めた。
「アンバーグリスの精油を作るには、エタノールみたいな溶媒に原料を漬けるの。そのあと、溶剤を取り除く“溶剤抽出法”っていう方法があるらしいわ。それ以外だと、椿油に漬けて非加熱で香りを抽出する方法もあるけど……こっちは数か月かかるって、父が言ってた」
梅野くんが言った。「そんなに時間はかけられないな。まずは溶剤抽出法で試してみるのがよさそうだ」
愛原さんは、越川さんが説明した溶剤抽出法の手順を黒板に書き出してくれた。
「まず、アンバーグリスを細かく砕くのね。次に、その粉をエタノールに浸す……それから少し時間を置いて、溶け出した香り成分を別の容器に移すの。溶媒が蒸発すれば、香り成分だけが残るってわけ。最後に、その残った成分から不純物を取り除けば完成……これで合ってるかな?」
僕はみんなにお願いをした。
「協力してくれてありがとう。アンバーグリスの溶剤抽出は、みんなで進めてほしい。ラベンダー、ローズマリー、ビャクダン、ゼラニウムを調合したボトルがここにある。抽出が終わった精油を、このボトルに加えてもらうんだけど……この作業は、愛原さんにお願いしたい。それに、慎重さが求められる工程だから、3組の津々木くんにも確認を頼んである。愛原さんは、僕と彼の意見を聞きながら調整してね。彼は、僕たちが目指す香りをよく知ってるから、きっと頼りになるはずだよ」
理科室のドアが開き、七島先生が入ってきて、室内の様子をひととおり見渡された。
「気分を落ち着かせる香料を作るなんて、よく思いついたわね。リラックス効果が高ければ、勉強や仕事にもきっと役立つでしょう。完成したら、先生にも使わせてほしいな。それじゃあ、みんなで協力して頑張ってみなさい」
そう言って、先生は静かに理科室を後にした。
3人は、溶剤抽出の準備に取りかかった。アンバーグリスを細かく砕いて、次々とエタノールに浸していく。エタノールや必要な器具は実験室に揃っているから、作業は順調に進みそうだった。
けれど僕には、まだ解決すべき課題がいくつか残っていた。何よりも先に、仕上がった制御物質の操作方法を知らなければならない。津々木さんや真鳥さんは「頭の中で念じるだけでいい」と言うけれど、僕にはそれだけじゃ足りない。もっと具体的に、確かな方法を知る必要がある。ここは、弟に相談するのが一番の近道だ。
『敢ちゃん、タイムリープの制御物質について調べてほしい。操作方法などが、生物工学研究所のコンピュータに残ってるかもしれない。できれば、成分とか作り方まで分かると助かる』
『うーん、それはちょっとハードル高いかも。その手の情報って、たぶん機密扱いだし、簡単にアクセスできないと思う。セキュリティ次第だけど……やれるだけやってみるよ』
『無理はしなくていいからな』
『まあ、任せてよ。僕、自分ではホワイトハッカーのつもりだけど、こんなことしてると、世間からはサイバー犯罪者、つまり、ブラックハッカーって思われちゃうかもね。でも、ここは頑張って兄貴に成果を見せたいんだ』
家に帰って、風呂と夕飯を済ませてから部屋に入る。机に向かった途端、急に眠気が押し寄せてきた。そのまま意識がふわっと遠のいて、僕は知らない世界を漂っているような、不思議な夢を見た。しかもその夢には、なぜかBGMが流れていた。曲名は『夢の夢』※50
★――――――――――――――――★
※50「夢の夢」(#9 Dream)は、ジョン・レノンが1975年1月にリリースした曲。4枚目のアルバム『心の壁、愛の橋』からのシングルカット。この曲は、ジョン・レノンが夢で聞いた言葉や、メロディーをもとに作ったと言われる。曲名はジョンのラッキーナンバーである9にちなんで名付けられ、アメリカのビルボードチャートでは9位まで上昇した。
星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
第42話 通信遮断
1974年12月24日 火曜
明日から冬休みが始まる。終業式の体育館で、校長先生が挨拶をされた。
「みなさんの中には、もう東海道新幹線に乗ったことがある人もいるでしょう。現在は岡山駅まで開通している山陽新幹線ですが、来年の3月10日には、ついに博多までつながります。そして――この町にも新しい駅ができるのです。私たちが待ち望んでいた、世界一のスピードを誇る新幹線が、いよいよやってきます。ぜひ皆さんにも、この素晴らしい乗り物を体験してほしい。そこで、来年の修学旅行は新幹線で関西方面へ行こうと考えています。楽しみにしていてください」
体育館がざわめきに包まれた。僕たち2年生の列からは、思わず歓声が上がった。
僕は、校長先生の話をほとんど聞いていない。頭の中は、あの音声メッセージのことでいっぱいだった。長く沈黙を守っていたチップが、突然、声を発した。それ以来、呼びかけは寝ても覚めても僕の脳内に響く。1時間おきに繰り返されるメッセージは、いつも同じ内容だった。
『弟の敢太だよ。陵汰兄ちゃんはどこにいるんだよ?』
最初は、ただの空耳だと思っていた。でも今は、鹿間敢太――弟の声だと確信している。
弟は、彼のデバイスチップに音声メッセージを設定したのだろう。それはサーバーを経由して発信される。けれど、僕が返事をしても反応はない。どうやら、弟には届いていないようだ。
じゃあ、なぜチップが突然動き始めたのか?
思い返せば、2日前の実習で、赤江先生が光速を超えてタイムマシンを稼働させた。あの瞬間に発生した衝撃波が、チップのシステムを強制的に再起動させたのかもしれない。
でも、喜んでばかりはいられないかも――チップは人間ひとりにつき、ひとつしか存在しない。チップが脳に接続されると、氏名・年齢・性別・住所などの本人情報がサーバーに登録される。それだけじゃない。人間が生きるために必要な五感――つまり、生体情報も、途切れることなくサーバーに送られ続ける。
もし、ひとりの人間に対してチップが2つ以上検知されたら......本人情報は重複して、生体情報も複数になる。そうなれば、政府の管理システムは異常を検知するはずだ。
2043年の僕は、意識を失ったまま、無意識が体を動かしているらしい。その“彼”にも、当然チップが埋め込まれている。そして今――意識スライドして摩耶浩之くんに入った僕にも、チップはある。
だとすれば、政府は「鹿間陵汰」が2人いることに気づくはず。……そうか。やっと分かってきた。
今もサーバーに接続されている翻訳機は、チップの一部にすぎない。本人情報や生体情報など、より重要な回路は、タイムリープの瞬間に通信不能になった。だから政府は、2043年の彼だけを「鹿間陵汰」として認識してきたんだ。
でも――もし通信障害が完全に復旧したら? 政府は、鹿間陵汰が2人存在することに気づくだろう......。
終業式の体育館で立ち尽くしていた僕は、後ろの生徒に軽く背中を押されて、寒々しいプレハブ教室へと歩き出した。
休み前のホームルームが終わり、下校時刻を迎えた頃―― 2年1組の教室には、あるメンバーが集まっていた。梅野くん、愛原さん、越川さん、そして僕。4人だけの集まりだった。
目的は、3学期から始まる『アンバーグリス』の調合作業についての前打ち合わせ。 調合には専用の教室が必要だと、梅野くんは放課後の理科教室の使用許可を学校に申請していた。音楽教師の七島先生は、彼の熱意に応じてくれて、学校側との交渉窓口になってくれた。
役割分担について、メンバーと意見を交わしていたその時だった。突然、頭の中に警告メッセージが鳴り響いた。
『あなたのデバイスチップに異常が検出されました。至急、最寄りの医療機関で診断を受けてください』
その声は、あまりにも唐突で、あまりにも無機質だった。まるで僕の体が、僕自身のものではないと告げるように...
思った通りだった。政府は、鹿間陵汰が2人いることに気づいた。同時に、そのメッセージは、デバイスチップが完全に復旧したことを意味する。
でも、病院で診察を受けたところで、何の意味がある? いや、それどころか、医師が僕の大脳皮質に装着されたチップを見た瞬間、きっと大騒ぎになる。「これは何だ」と騒がれ、報告され、あっという間に自由の効かないどこかに拘束されてしまうだろう。
僕は、あのメッセージにどう対処すればいいのか――まったく分からなかった。
打ち合わせを終えて帰宅すると、またあのメッセージが聴こえてきた。弟の敢太が発信している、いつもの声だった。
『弟の敢太だよ。陵汰兄ちゃんはどこにいるんだよ?』
すかさず、僕はメッセージを送った。言葉を選ぶ余裕なんてなかった。ただ、彼に届いてほしい――その一心だった。
『敢ちゃん、これまで連絡できなくてごめんよ。通信が遮断されていたんだ。でも、ようやく復旧した。僕は――70年前にタイムリープしてしまった。だけど心配しないで。大丈夫、元気に暮らしてる。
それより、急いで助けてほしいことがあるんだ。それは……』
星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜望郷編
第41話 月面着陸
1974年12月22日 日曜
2回目の実習に参加するため、朝早くからバスに揺られていた。前回と違うのは、今日は梅野くんを誘っていること。
昨日は、水産大学の“海洋学教室”を聴講したあと、学食で約1時間、ランチミーティングを行った。それは、越川教授のご厚意で実現した機会だった。僕たちは口々にお礼を伝え、名残惜しさを胸にキャンパスを後にした。
――「0.5グラム、そのわずかな量を分けていただけませんか?」食事中の会話の中で、愛原さんは教授に思い切ったお願いを口にした。僕たちは顔を見合わせ、教授の反応をうかがった。その瞬間の愛原さんは、まるで「言わなきゃよかった」と自分を責めているようにも見えた。
誰ひとり声を発することなく、静かな時間が流れた。学食の厨房からは、食器を洗う音や片付けの物音が響いてくる。教授は両腕を組み、目を閉じたまま沈黙を保っていた。
やがて教授は、ゆっくりと目を開けると、こう言った。
「探求心を持つ人は、周囲に刺激を与え、自らも成長していく。たいへん良いことだ。――了解した。分けてあげよう。ちなみにだが、アンバーグリスが高額だから躊躇したのではない。これは研究用に頂いたものだ。だからこそ、“研究のため”というあなたの言葉を信じてのことだよ」
僕たちは張りつめた空気から解き放たれ、場の雰囲気は一気に和らいだ。終始心配そうだった越川さんも、ほっとしたように表情を緩め、自然と笑みがこぼれた。
「ただし、ひとつ条件をつけよう。その新しい香りを作る研究レポートを、然るべきタイミングで提出してもらいたい。少し手間をかけることになるが、私もその成果に興味がある。
そうだな――年明け早々に原料を渡せるよう、手続きを済ませて翔子に持たせよう。 0.5グラムでは心もとないだろうから、1グラム用意する。香りの完成を、私も楽しみにしているよ」
バスは海峡沿いのカーブをゆっくりと曲がりながら、すっかり見慣れた風景を車窓に映し出していた。昨日の夕方、僕は帰宅するとすぐに赤江先生に電話をかけた。
「ところで、お願いがあるんですが――明日は、同級生をひとり連れて行ってもいいでしょうか?」
「それは構わないが、君はなぜそう考えたのかね? 信頼のおける人物だと判断したのだろうが……どうなのかね?
タイムマシンのような非現実的な乗り物を体験したとき、人は突発的な不安や恐怖に襲われ、混乱状態に陥ることがある。それに伴って、錯乱した行動を起こす可能性もあるのだよ」
「彼は、物事を論理的に捉えて行動しますから、心配には及びません。奇異な現象や秘密を知ったとしても、自分を見失うことはないでしょう。
それに――彼と僕が、より深い信頼関係を築くには、タイムマシンに乗ることが一番の近道に思えたのです」
僕たちは県立高校前でバスを降りた。そして、校舎とグラウンドに挟まれた細い道を並んで歩いた。
「振り返ってみると、やっぱり君、どこか違ってたよな。思い出すのは、去年の6月。登校して下駄箱の前に立った君が、『上履きがない!』って叫んだり、教室の入口で 『机がどこか思い出せない』って困ってたこと。
あのときは変だなって思ったけど……まさか、別人に入れ替わってたなんてね」
道すがら、僕は話を続けた。どこから、どんな経緯でこの世界に来たのか。なぜ摩耶くんの意識にスライドしたのか。そして、僕は元いた世界に戻りたいと、強く望んでいること。
梅野くんは僕の顔をじっと見て、その後、いくつか疑問を口にした。
「だいたい理解できたよ。それで、君の力になるには、具体的に何をすればいい?」
「僕が行動を起こすとき、君の意見を聞かせてほしい。それが正しい判断かどうか、問題はないか――そんな意見が、僕にとって何より心強いんだ」
「うん、わかった」彼が納得してくれた頃、先生のお宅が見えてきた。
僕は先生に挨拶して、梅野くんを紹介した。先生は目を閉じたまま、タイムマシンの起動準備に入る。そしてそのまま、静かに語り始めた。
「今日の実習では、過去の検証に加えて、未来の旅を試そうと思っている。梅野くん、時空間移動を存分に体験してくれたまえ。
タイムマシンを実際に体感することで、これは空想ではなく、現実なのだと――君自身が確信することを願っているよ」
暫くすると、僕たちは船内の大型モニターの前に立っていた。暗かった船内は徐々に明るさを取り戻し、前方の操作パネルには “1969年7月21日 2時56分” と表示されていた。
「タイムマシンは、過去や未来を旅するだけでなく、空間の移動も可能にしている。さて、モニターに映っているのは――月だ。
我々はさきほど地球を出発して、わずか1.3秒で月に到着した。地球と月との距離は約38万キロ。光の速度は秒速30万キロだから、我々はほぼ光速で移動してきたことになる。
パネルに表示された年月日を見て、何が起きようとしているか分かるかね?」
「アポロ11号が、月面着陸を試みているのではないですか?」梅野くんは、間髪入れずに答えた。
「そうだ。まさに月面に着陸する、その瞬間だ。パネルに表示されているのは、アームストロング船長が月面に降り立つ時刻だよ。
アームストロングとオルドリンは、着陸船『イーグル』で“静かの海”に降りることになる。そこから約21時間半、月面での滞在を経て離陸し、司令船『コロンビア』に合流する――そして、地球へ帰還するために月軌道を離脱するのだ」
この歴史的瞬間を、補助ディスプレイがさまざまなアングルで映し出していた。
「こんな貴重なシーンを目撃できるなんて、信じられません。夢じゃないかって、疑いたくなりますね」
梅野くんは、目の前の映像に驚きを隠さず、先生に語りかけた。
「だが、これを見ると、夢とは思わんだろう? 『アポロ11号は月に行っていない。スタジオでセットを組んで撮影したのだ』――そんな陰謀説がささやかれることもある。
つまり、これは仕組まれたフェイク映像だと疑う人がいるということだ。公開された画像を見せられても、“捏造だ”と決めつける人々は、今も絶えない」
「君たちがここで目撃したことは、あらゆる角度からマシンに記録されている。これで、真偽の判定はたやすいはずだ。
さあ、周囲を見てごらん。数多くのタイムマシンが浮遊しながら、この瞬間を観察しているだろう? もしこれが捏造だとすれば――こんな光景は、ありえない」
その後、僕たちのタイムマシンは、木星の第1衛星『イオ』へと向かった。 月から木星までの距離は、7億7,800万キロメートルと表示されている。
アポロ11号の巡航速度は秒速11キロ。もしそれで向かえば、到着までに2年2ヵ月かかる計算だ。光の速さなら、所要時間はわずか25分。
ところが、このマシンは――16分40秒で到着した。つまり、光速の1.5倍もの速度が出ていたことになる。
「梅野くん、光速をはるかに超えて、たった17分足らずで木星に着いたよ。僕にとっても、これは初めての体験だ。
アインシュタインは『宇宙における最大速度は光速であり、それを超えて物質は移動できない』と主張していた。でも、今こうして僕たちは、その理論を超えてしまっている。
遥か未来の人類は、“量子物理学”をさらに発展させて、ついに光速を超える宇宙船を開発したんだね」
梅野くんは、苦笑いを浮かべながらこう言った。
「目の前で起きたことは、もう受け入れるしかないよ。余計なことを考えるのはやめた。そうしないと、自己の存在意義が粉々になってしまう。今日の体験は――僕の人生観を、根底から変えてしまったよ」
先生は、大型モニターを指差して説明してくれた。
「ここに映っているのは、木星の衛星――イオだ。時代は西暦2800年。人類はこの地にコロニーを築き、すでに数千万人が生活している。
近づいてみれば分かるが、非常にバランスの取れた都市が形成されている。自然環境と人工構造が見事に調和しているのが分かるだろう」
――「さあ、2回目の実習はこれで終わりだ。そろそろ家に戻るとしよう」先生は、速度を光速の1.2倍に設定して発進した。
地球への帰還途中。僕の脳に埋め込まれたチップから、何か音が聴こえてきた。
途切れ途切れの雑音の中、それは次第に人の声に変わり、 やがて、はっきりとした呼びかけのメッセージになった。
「兄貴、聞こえるかい? 聞こえたら返事してくれよ! 弟の敢太(かんた)だよ。陵汰兄ちゃん、今どこにいるんだよ?」
……幻聴なのだろう。そう思った。