tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

最終47話 汽笛

       1975年3月20日 木曜

 遠くで走る列車の汽笛が聞こえてきた。 ベッドから起き上がって机の置時計を見ると、午前4時21分だった。 最近は蒸気機関車を見る機会がずいぶん減ったと思う。 国鉄は「無煙化」を進めているから、『DD51形』(※注42)などのディーゼル機関車に置き換わっている。

 漁業が盛んな山陰本線の北浦地区からは、漁師の妻たちが毎朝列車に乗って、下関駅まで出かけていた。列車の中では、カニイカなど海産物を入れた籠やバケツを持って、乗客に声をかけながら販売する。早朝にもかかわらず、列車の中は活気に満ちていて、その光景は、山陰本線の名物と呼ばれている。

 勉強部屋の照明を明るくしたあと、キッチンに行った。ポットでお湯を沸かすと、インスタントコーヒーを入れたマグカップにお湯を注いだ。部屋に戻ると机に座り、マグカップに両手を添えて手のひらを温めると、体が冷えていたことに気がついた。この時期なら、例年はもっと暖かくなっているはずなのに、室温計を見ると4度しかなくて肌寒い。

 カーテンの隙間からは、静寂の夜が見えるけれど、雨音は聞こえてこない。そういえば、あの時は部屋の光に反射する雨粒が、小さな銀の矢となって地面に打ちつけていた。あれから2年近く経ったというのに、あの日のことが忘れられない。今日で630日をこの世界で過ごしてきた―――突然見知らぬ世界に放り出された僕は、動揺を覚えながらも抗(あらが)えない運命を受け入れるしかなかった。こうして、他人を演じることに徹する生き方を余儀なくされた。

 AIロボット“クロノスC―931”は、先月の2月11日に僕を助けてくれた。テクノロジーは夢を現実のものに変えて進化を続ける。今から400年先の先端技術は、僕に70年後の世界に戻るチャンスを与えてくれた。でも、そのチャンスは何度も訪れることはないだろう。なんとしても、僕は本来の時代に戻らなくてはならない。

 2月13日の放課後、とあるメンバーは理科室に集合していた。梅野くんは調合をやり直さなければならないと、みんなに言った。そして、アンバーグリスを電気分解する必要性について、丁寧に説明をした。

 理科室のドアを開けて、5組の日景一洋くんが遅れて入って来た。「どんな電気分解装置を作るんだい?正確な設計図があれば作れないでもないけど・・・」 彼の疑問に答えるために、僕は用意していた設計図を、慌てて机の上に広げた。

「装置に必要な材料は、電極にする炭素などの金属線や棒、電解槽を作るのに必要なU字管などだね。あと、電源装置や電解液なども準備しなければならない」

 設計図をのぞき込んで聞いていた日景くんは 「電源装置は僕が持っているもので代用できるな。それから電解液は塩化ナトリウム水溶液で十分だと思うよ。ほかに必要な材料は購入することにしよう。これを完成させるのは、期末テスト明けの2月26日でどうだろう?」

 こうして週末は、日景くんと梅野くん、それに僕の3人で、“唐戸無線”に行って材料を揃えた。テスト明けの26日放課後、日景くんは完成品を理科室に持ち込んだ。それは電気メーカーが製作したかのような見事な出来栄えだった。電解槽は透明なガラス製で、中は塩化ナトリウム水溶液で満たされている。電極は炭素の棒で、両端には金属線が巻いてある。電源装置は小型のアダプターで、コンセントに差し込むだけで作動した。 日景くんは、早速電気分解を開始した―――――

―――――「電気分解は終わったようね?さあ、次は私たちの出番よ。摩耶くん、アンバーグリスの調合量は、前回のレシピ通りでいいのかな?」愛原さんは念のために僕に確認をした。

「うん。量的には前回と変わりないと思うんだ。ただし香りは前回のボトルよりも芳醇(ほうじゅん)な香りでなければならない。だから微妙な量を足すなどの調整が必要になってくると思う」

「そうなの?これは大変だわ!みんなで協力してなんとか頑張らないと・・・」

「そうだね。アンバーグリスは貴重な素材だから、無駄にしないように注意するんだ。 でも、成功すれば、摩耶くんだけではなく、僕たちにとっても素晴らしい成果になるはずだよ」梅野くんは目を輝かせて言った。

 越川さんは嬉しそうな表情をしていた。「この香水は私たちの誇りだもの。父親に自信を持ってレポートが提出できる。最後の頑張りで、どんな香りに仕上がるのかと想像すると、ドキドキが収まらないわ」

「なんだよ!みんなとても楽しそうじゃないか。僕も混ぜてくれよ」・・・日景くんもメンバーとなった―――

 コーヒーを入れ直すためにもう一度キッチンに向かった。掛け時計は5時15分を指している。再び勉強部屋に戻ると、カーテンを引いて窓を開けてみた。冷たい空気が、温まりかけていた部屋の空気と入れ替わった。同時に身がきゅっと締まる感覚に襲われる。暗かった空はうっすらと白み始めていた。

 摩耶家の家族には、良い時も悪い時もお世話になった。特に少年の母親は、常に厳しく僕を鍛えてくれた。時には、おかず無しの白ごはん弁当を作り続けるなど、ヒステリックの極みとも思える、親子のせめぎ合いに巻き込まれたけれど、それが彼女なりの愛情だったのかも知れないと、今では思える。

 津々木捜査官と真鳥さんは、3月7日の夕刻に2060年の未来へと帰って行った。津々木捜査官は懸案だった小津を逮捕して、彼の組織を壊滅させることに成功した。ようやく家族の元へ戻ることが決まってとても嬉しそうだった。

「いやーっ、今回の捜査はながかったべ。やっと家に帰れるようになった。警察庁のスタッフもよろこんでるべ。これも鹿間くんたちの協力があってのことだべな。落ち着いたら2060年の世界に遊びにきてけろ」 

 こうして津々木家のメンバーは旅立ったけれども、津々木捜査官は、この世界で関係のあった人々の記憶から、自分たちの存在を消去することを忘れなかった。

 真鳥捜査官は、未来の犯罪者を追跡するために必要なパートナーだと、アキラに言い聞かせていた。アキラは、沖縄で偶然発見した古代遺跡から得た秘密の装置によって、時間旅行をする能力を身に着けていた。ところが、彼は未来へ行くことに恐怖と嫌悪を感じていた。それでも真鳥捜査官の熱心な説得に押されると、しぶしぶ納得して2060年の世界へ旅立った。

 3月9日、僕は赤江瀑先生の家にある書斎に案内されていた。先生は僕の尊敬する作家であり、小説以外にも時空間理論など、多くの知識とアドバイスを与えてくれた人だった。何よりもタイムマシンを自ら操縦して、時間旅行を実践してくれたことは、生涯忘れることはないだろう。

 書斎から見える関門海峡は早春の風景だった。おだやかな潮の流れに多くの船が行き交っている。先生は窓辺に座って海峡を眺めながら、様々なことについて話してくれた。「この海峡はね、私にとって特別な場所なんだ。君は君で特別な場所である未来に行く時が来たようだね。また会えることを楽しみにしているよ」 と言ってくれた。それは僕への最後の言葉だった。僕は涙のせいで先生の姿がぼやけていた。

 終業式を来週に控えている3月14日。理科室に集合したメンバーは、ようやく完成したと思われるボトルをのぞき込んでいた。 最初に作ったボトルと調合の度合いは大きく違っていないのに、間違いなく芳醇さは増している。

「このボトルは完成品だな」と僕が言うと、「跳躍して検証してみなければ分からないのでは?」と、梅野くんは首をかしげた。

「大丈夫!実は昨日の夜、弟に連絡をしたんだ。弟の敢太が、新たに入手した極秘のレシピと照合すると完全に一致していた」そう打ち明けると、梅野くんは納得の表情になった。

「摩耶くん良かったね。でもいつかまた会える日が来るわよ。それまで楽しみにしているわ」そう越川さんは言ってくれた。

「時間旅行に興味が湧いてきたよ。もっと勉強して、いつかタイムマシンを作ってみるか?!」日景くんは笑顔を浮かべている。

 愛原さんは心配顔で僕に問いかけてきた。「時をかける少女では、未来人の深町くんは元の時代に帰る時、関わった全ての人の記憶を消したでしょ? 摩耶くんもそうするの?」

「僕は高度な技術を持っていないからそんなことはしないよ。それにね、元の世界に戻るもうひとつの目的は、どこかに行ってしまった摩耶浩之くんの意識を、一刻も早くこの体に戻すことなんだ。僕は来週の終業式までに、この世界から消えることになる。 そうすると摩耶浩之くんの意識は元通りになる。でも、彼は2年近くの記憶を持っていない。もし、彼が困っているところを見かけたら助けてくれると嬉しいな。だから僕が消えた後も、みんなの記憶は残っていて欲しいんだ」

「鹿間陵汰くん。今後の摩耶浩之くんのことは僕たちに任せてくれるかい?なんといっても“近所3人組”だからね」梅野くんは僕と固い握手を交わしてくれた。

 理科室を出て教室に戻ると、南校舎からギターの音色が聴こえてきた。それは、十川くんと桜坂くんの夕暮れの演奏会だった。持ち歌は増えていて、聴衆は教室に入りきれないほどになっていた。そしてそこには、長谷寛人くんの姿があった。彼は僕に気が付くと話しかけてくれた。

「風の噂で聞いたんだけど、もう未来に帰るらしいね?僕だったら、70年間を何度も楽しんでから元の人生を送るけどね。まぁ、人それぞれだから、君の好きなようにすればいいってことだな。少し寂しいけどね」 長谷くんらしい言葉だった。

 机の置時計を見ると、5時50分になっている。夜は明けて静かな朝を迎えていた。 少年の母親が、鼻歌交じりに朝仕度を始めたようで、ガチャガチャと慌ただしい音がキッチンから聞こえてくる。

 何度となく悩んだ。僕はいつも元の世界が恋しくて、いつまでも星霜に棲むという覚悟をを見送った。“星霜に棲む”と決めた人たちが、数多くいることを知ったにも関わらず・・・・・・

 なかば永遠の命を授かって暮らす人までいる。今は受け入れられなくても、考えが変わることがあるかも知れないけれど。僕は名古屋に住む相川さんとは、人生について、これまで何度も議論を繰り返してきた。その相川さんには、3月20日に旅立つことを手紙で伝えて、別れを告げた。

 そうだ、敢ちゃんにも連絡を入れてみよう・・・「あと10分で帰るからね。ようやく会えるなぁ。ねえ敢ちゃん。夏休みに入ったら一緒に実家に帰ろうよ。久しぶりに家族みんなで“えびめし”を食べたいんだ」

「それはいいね!でも“えびめし”だけじゃ物足りないな。僕は“デミカツ丼”も追加するぞ!」

「食いしん坊くん!それから南米のリゾート地に行ってみないか?リオデジャネイロの“コパカバーナ”※注24 で、日光浴ができたら最高だよ」

「どこも海洋汚染されているから海には入れないよね?僕はそれよりもキューバハバナで異国情緒を味わってみたいな」

「だったらこれはどうだろう?ニューヨークのマンハッタンにあるクラブ 『コパカバーナ』でカクテルを楽しむというのは・・・そこは踊れるし、ビュッフェがあるからお腹いっぱいにもなれるよ。それにね・・・・・・・・・」

 

 次の下り列車が汽笛を鳴らすとき、元の世界へ戻ると決めていた。別れと再会を告げる旅立ちの音色が、もうすぐ聞こえてくるはずだ―――

 

―――3月20日木曜6時23分。勉強部屋の机に座ったまま、僕はひとり静かにこの世界を去っていった。

 

★――――――――――――――――★

The end credits song is Copacabana.

※注24 コパカバーナビーチは、リオデジャネイロにある全長4kmにわたる白い砂浜。 1978年にバリー・マニロウが発表した楽曲では、その名にちなんだニューヨークのナイトクラブ、『コパカバーナ』での出来事を歌っている。この曲は1979年のグラミー賞を受賞した。

このビーチの名前をとったライブハウスは、1940年にオープンした歴史あるクラブ。 ラテン音楽サルサダンスを楽しむことができ、ビュッフェやドリンクが提供されている。しかし残念ながら、2020年に新型コロナウイルスの影響で一時的に閉店した。再開の予定は不明。

(※注42) 「DD51形」は、日本国有鉄道によって1962年から1978年にかけて製造された液体式ディーゼル機関車

 

∞∞∞∞ あとがき ∞∞∞∞

最終話までお付き合いいただきましてありがとうございます。今後は、星霜に棲むという覚悟~Time Without End~をコンセプトにした短編小説などを投稿したいと考えています。準備期間を置いて開始する予定です。不定期になるかも知れませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

The End Credits Song Is Copacabana.


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星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第46話 電気分解

               1975年2月11日 火曜

 10年後の未来から戻ってきて、2日目の朝を迎えた。今朝も玄関の外には、近所4人組のうち2人が迎えに来てくれている。昨日、学校で生徒名簿を確認すると、目の前にいる女子生徒の名は、山本遊羽恋(やまもとゆうこ)さんで、早志くんと同じ2年6組になる。

 早志くんは梅野くんの家に行く途中、僕の寝ぼけ癖について話しを始めた。「先週の木曜夕方6時半頃だったよ。 俺は英語塾に行くために、自転車で摩耶の家に行って、チャイムを鳴らしたんだ。普段は直ぐに出てくるのに、その日は出てくる気配がない。 だからもう一度チャイムを鳴らしてみたんだ。すると家の奥からドドドドドッって足音が響いて、玄関の扉が開いた。

 摩耶は塾に行く前は仮眠をとるから、その日も寝ていたようだった。パジャマ姿の摩耶は、俺の顔を見るなり 『隕石が落ちたよね?地球はどうなったんだ!みんな大丈夫か?!』 と、血相を変えて言うんだ。俺はあっけに取られて、摩耶が右往左往する様子を暫く見ていたよ」

 山本さんは顔をうつむき気味に歩いていた。その様子を僕は横目で見ながら彼女に歩調を合わせた。明らかに笑いをこらえている。早志くんが言った 「山本さん、摩耶って変な奴だと思わない? 授業中もその癖を出して先生たちを驚かせるからな」これを聞いた彼女は、大きな声で爆笑するとずっと笑い続けた。梅野家のチャイムを押すまで、笑いが止むことは無かった。

 学校生活にしても、家庭で過ごす時でも、どこか違和感がつきまとう。大筋の流れは同じでも、細部が異なっているのに気がつくと、頭の中が混乱してしまう。僕は昨日から、2時間おきに弟に連絡を入れているけれど、いまだに応答はない。それでも 『僕との通信が途絶えたら、敢ちゃんはすぐに原因を探してくれる。そして必ず僕を助け出すだろう』 それは、微かな期待なのかも知れない。でもそう考えると、少しは焦る気持ちを沈めることができた。

 未来から戻ってきて3日目。今日は2月14日だからバレンタインデーになる。でもそんな雰囲気は周囲から何も感じられない。休憩時間に、3組の教室に行っても、津々木捜査官の姿はなかった。4組の桜坂香くんが廊下に出ていたので「今日はバレンタインデーだよね?」と聞いてみた。「そうだな。一年に一度、男子が女子に告白できる大切な日だね」と言う。「えっ、逆じゃない?・・・似て非なるというのはこういうことだよ。 些細な違いが幾つも出てくる。いちいち考えていたら頭痛がしてくるよ、あーもう嫌だ!」 これを聞いた彼は、両手を広げると、手のひらを上に向けて首をかしげる仕草をしていた。

 戻ってきて5日目の2月16日。いつもと変わりのない日曜の朝。来週から期末テストが始まるから、復習をしようと机に向かっていた。玄関のチャイムが鳴ると、少年の母親が「梅野くんが来てるわよ!」と僕を呼んだ。玄関の扉を開けると、そこには苛立った様子の梅野くんが立っていた。「こんなに朝早くからどうしたの?」と僕は聞いた。

「何してるんだよ!今日は赤江先生の家に行って、マシンに乗せてもらう日だろう?」

「そうだった? ・・・いやそうだよね。直ぐに仕度するから待ってくれるかい?あっ!それから先生に電話しないといけないね」

「何を言ってるんだよ。一週間前、先生に了解をもらったと、君が言ったじゃないか!」

 たぶん梅野くんは 『摩耶の寝ぼけ癖はかなり重症だな』と考えているだろう。僕たちは急いでバスに乗ると先生の家に向かった。バスの中で梅野くんは、「今日の船上決戦は激しい戦いになるのかな?」と、心配していた・・・

『そうか!今日はその為に先生のマシンに乗るということなんだ。ほんとうの世界では、先月の1月26日に、船上決戦が行われている。待てよ?決戦の結末が同じだとは限らない。何だか嫌な予感がしてきた―――』

 雪が降りしきる中、橋の上に停車した車両の周囲に立つ、背広姿6名の姿が忽然と消えた。バイクにまたがったアキラも同時に消えていた。マシンのモニターに映る船の甲板上では戦いが始まっている。ここまではあの1月26日とほぼ同じだった。

 先生が甲板付近までマシンを移動させた。そこでは、壮絶な銃撃戦が繰り広げられている。敵はマシンガンを使って、捜査官たちに向けて銃弾を浴びせる。そして、敵の数に驚いた。20人以上はいると思う。これは、津々木捜査官が予測した人数の倍になる。 これでは多勢に無勢で、到底勝ち目は無いと思えた。梅野くんは首を横に振りながら 「こんな悲惨な光景は見たくなかった」と元気なくつぶやいた。

 真鳥捜査官は、仕掛けられた爆弾を船内から持ち出して海に投げ込もうとしていた。 アキラは危険を察知して、真鳥捜査官の抱える爆弾を片手で取り上げると、バイクごと甲板から海に向かってジャンプを試みた。しかし、もう手遅れだった。爆弾は空中で炸裂してしまった。真鳥さんは甲板に倒れ込むと、爆散した破片を身体中に浴びて動かなくなった。アキラは、爆発と同時にテレポート(瞬間移動)をして、危機を回避したようだった。

 一方、甲板上で驚くべき光景を見ることになる。この大混乱のさなかに、どこからともなく学生服を着た生徒が現れた。その姿をよく見ると、なぜか2年1組の河内摂(かわうちせつ)くんだった。クラスメイトの彼は、敵の銃撃を恐れることもなく、左手を腰にあてて立っていた。そして右手に握る木槌を、ゆっくりと円を描くように左右に振った。すると彼の周りに楕円状のエネルギーフィールドが展開された。これは防御システムのシールドのように見えた。敵の銃口は、突然現れた彼に向けて一斉に銃撃を開始した。ところが、シールドは銃弾を次々に跳ね返していく。

 摂くんは、振り上げた木槌を水平に下ろすと、敵に向けてレーザービームを照射した。こうして一人ずつ倒していく。そのうち、反撃できるのは彼ひとりとなり、多勢の敵をつぶすにはなにしろ時間が掛かる。でも、銃撃戦を見ていると、それが何故なのかが分かった。彼はビームの照射レベルを弱にしているようで、相手を気絶させるだけで、致命傷を与えていなかった。敵は 「おい!あのハンマー男には気を付けるんだ。 しかし、ビームが命中しても一瞬気絶するだけだから、恐れるに足りないぞ!」と叫んでいた。

 そうこうしている間に、船は港の岸壁に接岸して密輸品の荷下ろしを始めた。ところが、そこは下関港ではなく門司港だった。敵は岸壁で待ち受けていたトラックに密輸品を積み込むと、小津が自ら運転をして走り去ってしまった。

 操舵室では、津々木捜査官が血を流して倒れている。梅野くんと僕は、銃撃戦で傷ついた津々木さん、真鳥さん、他に4人の捜査官たちをマシンに乗せると、止血などの介抱をした。先生はマシンを操縦して病院まで急行してくれた。アキラもバイクにまたがり病院までの道を急いだ。 

 病院での処置が済んだ後、担当医の方から治療状況についての説明があった。

「銃弾の除去と止血処理を行いました。創傷部分には抗菌剤を投与していますから、命に別状はないでしょう。ただしこれは4名の方についてのことです。他2名の方は、服装に銃弾や爆弾の破片が貫通した痕跡があるのに、体内には銃弾などは残ってなく、出血もありません。信じがたいことですが、全く健常な人だと言えます」

『そうだった!津々木さんと真鳥さんの身体はアバターだから、自動回復機能が作動している。病院に到着する頃には、無傷にまで回復していたんだ』

・・・・・・いずれにしても悪い予感は当たり、船上決戦は後味の悪い結果となった―――僕はこのようなパラレルワールドの住人になるしかないのだろうか?

 こうして憂鬱な日曜の夜を迎えた僕は、勉強机に座っていた。自分の存在感をすっかり見失った今は、何もする気にはなれず、ただ漠然と時間が過ぎていくだけだった。

 すると、ラジオで選局をする時によく発する、ザラザラという雑音がどこからか聴こえてきた。『陵汰兄ちゃん!聞こえるかい?』という呼びかけが頭の中で響いた。 僕は思わず椅子から立ち上がると、高ぶる気持ちを抑えながら返事をした。『敢ちゃん!ようやく繋がったんだね。必ず連絡があると信じていたよ』

『遅くなってごめん。突然連絡が途絶えたから、兄貴は並行世界に入り込んだのではないか?と疑っていたんだよ。でも解決方法を調べるのに、思った以上に時間が掛かってしまった。生物工学研究所のサーバーに再度ハッキングをかけたんだ。すると、前回は気が付かなかった裏データにたどり着いた。僕はすっかり騙されていたんだ。制御システムの核心部分を、別ファイルに移動させていたとはね。だけど量子暗号化された強固なセキュリティを無効化して、解読に成功したよ』

『やったな!今度会った時には、お礼にビッグマックを好きなだけ買ってあげるよ。 それはそうと、並行世界にいる僕と交信をするのに、苦労はなかったかい?量子理論では “量子もつれ”を応用すれば可能だと学んだけど、世の中にはまだ実例はないからね。 おそらく、敢ちゃんが歴史上初めてパラレルワールドとの交信に成功した人物だよ!』

『そうかい? 初めてと言われると嬉しいけどね。迷い込んだ人がいて、彼のデバイスチップが発する識別信号を知っていたから成功しただけだよ――

――では、これから2つの課題を解決する話をするよ。1つ目はパラレルワールド(並行世界)から、本来の世界に戻る方法。2つ目は、再び並行世界に迷い込まない対策についてだからね』――弟は順を追って説明してくれた。

『では1つ目。これは信じがたい話だと思うかも知れないけど、並行世界には“時空の管理人が住んでいるんだ。この管理人は、都市伝説など噂話のレベルでは有名な人で、 “時空のおっさん” と呼ばれている。作業着を着てヘルメットをかぶり、横柄な態度でぶっきらぼうなんだ。『来るな!』とか 『なぜここに来たのか?』と大声で怒鳴るらしいよ。でも彼に会う事さえできれば、本来の世界に戻してくれる。――

――実は、この“時空のおっさん”とは、西暦2400年代に製造された、超高性能AIロボットなんだ。このAIロボットは、あらゆる並行世界に派遣されていて、遭難者たちを日夜救助している。西暦2300年代までは、並行世界に迷い込んだ遭難者を検知すると、政府が担当官を派遣して救助する仕組みだった。これをもっと効率化する為にAIを導入したらしい。ロボットの識別番号は“クロノスC―931”だから覚えておいてね。会った時に 『もうここには来るな、二度目は無いぞ』 と脅されるかも知れないけど、口悪くプログラムされているだけだから、気にすることはないらしい』

『何とも興味深い話だね。それじゃ、一刻も早くその人に会わなきゃならないな』

『そうだね。でもそんなに焦らなくても、近いうちに彼は現われると思うよ。・・・では2つ目だよ。兄貴たちが調合したタイムリープの制御物質だけど、アンバーグリスを精油にするのに溶剤抽出をしたよね?それでもタイムリープは可能なんだけど、これだと今回のように意図せずに、並行世界へ跳躍してしまうことがたまに発生する。それを回避するには、アンバーグリスを電気分解してから、調合しなければならないと分かったんだよ・・・・・・』

 翌日、登校して1組の教室に入ると、僕は河内摂くんが座る席に向かった。摂くんは椅子に座ったまま僕を見上げた。 僕は彼と教室を出て、廊下の端まで行くと疑問をぶつけた。

「摂くん、昨日は大活躍だったね。しかし君の持つ木槌はただものでは無いよ。どうしてシールドを張ったり、レーザービームが発射できるの?」

「あぁ、その事かい?あの木槌は知り合いのおじさんからもらったものだよ。いざという時はこれを使いなさいとね。おじさんは、他にもあれこれ便利なものをくれるんだ。 そういえば、君は違う世界から来た人間のようだね。僕は匂いでそれが分かるんだけど、もし君が本来の世界に戻りたいと思うなら、昼休みにおじさんを呼んでこようか?」

 昼休み時間、摂くんから指定された正門の前に行ってみた。そこには、冬だというのに真っ黒に日焼けしたヘルメット姿のおじさんが立っていた。

「なんだ!戻りたいというのはお前のことか?まったく手を焼かせる奴だなぁ。軽はずみな事をするから迷い込むってんだ。いいか?もう二度と来るんじゃねえぞ!!」そう言い終わるや否や、僕は“時空のおっさん”に2月11日建国記念日の午後3時に跳ばされた。ここは並行世界ではなく、僕が居るべき本来の世界でなければならない。

 津々木捜査官の家に姿を現した僕の目の前には、母親役の和子さんが立っていた。 

「津々木さんは、小津容疑者を護送するために未来に行っているわよ」と教えてくれた。 

『彼女は、“捜査官が小津容疑者を護送している”と言った。パラレルワールドでは、小津は門司港から逃走した。小津が逮捕されているというこの世界は、本来の世界に間違いない』和子さんと暫く話を交わした後、家に帰りながら考えた。

『調合をやり直せば、おそらく元の世界に戻ることができる。その為には電気分解装置が必要になる。念のために設計図を書いておこう。あとは材料費も必要だな。少年の母親に、来月のおこずかいを前借りして・・・』

翌日の朝、登校する時に梅野くんに相談してみた。

「未来へのタイムリープを試してみたら、不具合が見つかったんだ。それを解決するには、電気分解をしたアンバーグリスを、調合しないといけないようなんだ。その為には電気分解装置が必要になるけど、どうしたらいいと思う?」

「う~ん、学校には電気分解装置は無いからね。どうしたものかな?」

「そうだよね。だったら装置を自作するしかないなぁ」

「こういう事は、5組の日景一洋くんが得意だから、彼にお願いしてみようか?それから理科室の使用期限は切れているから、七島先生に期末テストが始まるまで延長してもらうように交渉するよ。明日の放課後にみんなで理科室に集合して対策を考えよう」

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星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第45話 パラレルワールド

               1975年2月10日 月曜

『大騒ぎになることもなかったし、必要な情報も十分に得られたよ。実は、途中で何度かあきらめかけたんだ。それでも、頑張ってなんとかハッキング出来たからね。だから今はほっとしているよ。それにしても、兄貴の勤務していた会社は、ガードが固かったなぁ。それから、調べるほどに闇の深い会社だと知ったから、僕は怒りや憤りで身が震えたんだ』

 弟の鹿間敢太にハッキングを依頼したのは、年が明けた始業式の日だった。彼は3日後に、その調査結果を知らせてくれた。

『兄貴が過去に飛ばされた頃の2043年は、今ではタイムリーパー元年と言われている。タイムリープは、古くから知られる現象だったよね。でもそれは噂レベルであって、空想科学の域を出ていなかった。ところが、これを科学的に解明したのが、兄貴が勤務していたキュビットシステムなんだ。会社は2040年にプロジェクトを立ち上げた。その主幹部署が生物工学研究所だね。タイムリープを制御するシステムの開発に着手したと、記録が残っているよ』

『会社がプロジェクトを立ち上げた動機と、その根拠はいったい何だったのかな?』

『それは2035年に遡るようだよ。当時、ある若き植物学者が開発した培養装置が、植物の成分を使って、時空を飛び越えるエネルギーを生むことに成功したらしい。放出される緑に光るエネルギーに触れると、過去や未来に移動することができたというんだ。 その植物学者は、この世紀の大発見を公表しようと準備を進めていた。ところが、彼はキュビットシステムが雇った集団に、突然襲われて拉致されてしまう。それ以来、長きに渡って生物工学研究所内に閉じ込められたんだ。その後、彼は“時間旅行”の完成度を高めるよう、会社から研究を強要された―

―改良の目途が付いた2040年ごろ、会社は世の中に対して、“タイムリープの開発にこれから着手する”というプレスリリースを行う。“時間旅行システムを自社開発するよ”と・・・でもほんとうは、出来レースなんだよね。こうすることで、会社は独自開発をしたというアリバイが作れる。それから株価も上がり、世間の信頼を得ることができる。その後は、治験をスタートさせて、2043年10月に完成を見ることになる。ちなみに、この植物学者は、いつしか闇に葬り去られているんだ。ほんとうに気の毒だよね』

『・・・言葉がないよ。研究成果を盗むばかりでなく、人の命まで奪うなんて・・・小津や彼の研究チームによる犯行だとばかり考えていたけど、会社ぐるみだったとはね』

『会社ぐるみだと思った? 兄貴は少し甘いよ。実はね、政府もこのプロジェクトに絡んでいるんだよ。それを言うなら国ぐるみなんだ。この事実を知った瞬間、ハッキングをした僕も狙われるのではないかと、恐怖で震えが止まらなかったんだ』

『ほんとうなのかい? 信じられない話だね―――ところで小津は、2040年に入社して生物工学研究所で働いていたと、相川さんに聞いている。その“小津少年に意識スライドした”人物の名前は分かったかい?』

『うん、兄貴が得た情報で検索をかけたら直ぐに判明したよ。2015年9月11日生まれ。 2040年4月入社。生物工学研究所に配属されたという情報だったね。これだけで十分だったよ。検索条件に一致するデータが1つだけ出てきた。それは“石田都茂矢(いしだともや)”という名で、兄貴が通っていた大学を卒業した4年先輩になる。大学院卒だから、会社では2年先輩ということだね』

『人物像はなんとなく浮かんでいたけど、あの石田さんだったとは・・・彼はね、新進気鋭の逸材と言われて、社内では期待の研究者だったんだ』

『そうなんだろうな。でも、そんな彼が研究チームを巻き込んで、違法なことをしたんだ。制御システムの検証が、あまりにも困難だったことでね。彼はチームの責任者として追い詰められたようだね。被験者が集まらないから治験なんてできないんだ。それはそうだろうよ。過去や未来に跳躍して、現代に戻るプロセスを検証するんだから。戻ってくることが出来ない可能性もある。そんな治験に誰が応募すると思うかい?』

『過酷な作業計画を突き付けられたんだろうなぁ。期限を区切られると、誰でも焦るからね。石田さんは、会社の厳しい要求に、なりふり構わない状態に陥っていたんだろう』

『治験とは、新しい医薬品の効果や安全性を確認するための臨床試験だよね。被験者には目的や内容などを正しく説明して、同意を得る必要がある。安全を最優先にして、被験者に不当な影響を与えてはならないんだ。ところが彼は何をしたと思う?十分な説明をせずに、嘘を言って、公募した被験者から同意を得たんだよ。そして、目を付けた社員に対しては、説明はおろか、強引に治験を実行した。こうして現代に戻ることができなくなった行方不明者は、3年間だけでも被験者が18人、社員は14人にのぼる。当然、親族は捜索願を出すけど、会社は事実を隠ぺいした。また、資金面でプロジェクトを支援していた政府は、警察に圧力をかけて捜査妨害までしたんだ』

『ターゲットにされた社員は、ある日、研究棟で知らぬ間に、香りを発する薬剤を体に塗られる。研究グループから、付着させた薬剤(制御システム)に向けて起動データを送ると、タイムリープが実行される。すると、あらゆるデータが被験者のデバイスチップを通じて収集されていく仕組みだね。跳躍した人体のデータさえ収集できれば、被験者がどうなってしまおうと構わない』

『そういうことなんだ。多大な犠牲の上に完成した制御システムだったということだね。こうして、跳躍を自在に操る方法を見つけたことで、タイムリーパーが誕生することになる。その“石田都茂矢”は、1年前の2044年に退職している。彼はその時、制御システムのデータを研究所から盗み出している。データを複製した痕跡が残っていたから間違いないよ。今は2045年2月、僕は現時点までの情報しか持たないけど、その後に彼がたどった道は、おそらく兄貴の知る通りじゃないのかな?』

『相川さんはこうも言っていた。その後は、タイムリープに対する倫理観や、技術の重要性から、国の管理下に置かれることになると・・・』

『その通りだね。2044年12月にキュビットシステムの特許権は剥奪されている。国が厳重に管理することになったんだ。むしろ初めから、成果を取り上げるつもりだったのかも知れない。会社にすれば自業自得ってもんだね。サーバーに格納されたデータは、国が没収したはず。ところが会社は没収されたデータの大半を復元したようで、制御物質の成分や作り方、制御物質の操作方法などが残っていたから安心しなよ。・・・・・・・・・なんだかお腹が減ってきたなぁ。ビッグマックでも食べよっかな』―――

―――理科室で制御物質を完成させて、10分前の過去にタイムリープしたのは、1月22日だった。僕はその夜に弟の敢ちゃんに連絡を入れた。10分前の過去に跳躍したことを伝えると、完成させた制御物質の作成工程を説明した。ボトルの中身が、ハッキングしたデータと一致するかどうか調べてもらった。

 弟は驚きを込めてこう言った。

『全く問題ないよ。しかしレシピも無いのに、よくここまで同じものを作ったもんだね』

 それから数日が経ち、1月26日の船上決戦のあとに、半年前の過去へ行ってみた。 そして2月早々に、今度は、1年前の過去まで行ってみたけれど、特に気になるようなことは無かった。あとは未来への跳躍がうまくいけば、制御システムは完成したと考えていいだろう。

 未来へ行く日は、2月10日の建国記念日前夜に決めた。弟に連絡をして、操作方法を念入りに復習すると 『これから10年後の未来に跳躍してみるからね。こちらの母親には、今夜から津々木くんの家で1泊2日の勉強会に参加すると伝えている。万が一なんらかのトラブルが起きたら、直ぐに連絡するからね』―――

―――こじんまりとした部屋の壁には、1985年のカレンダーが貼ってある。テレビのスイッチを入れてチャンネルを回した。NHKが、東京にあるホテルニュージャパン(※注37)が、昨日起こした火災について解説をしていた。テーブルの上に置かれた新聞を拡げると、昭和60年2月10日の文字があった。どうやら、10年後の未来への跳躍は成功したようだった。1985年2月10日の世界では、僕こと摩耶浩之くんは、社会人となってワンルームで独り暮らしをしているようだ。新聞をめくると、札幌冬季オリンピック(※注38)の特集が大きく組まれている。他にも、メジャーリーグで活躍する、鈴木イチロー(※注39)や、テイラー・スウィフト(※注40)が、ロサンゼルスで開催されたグラミー賞で、年間最優秀アルバム賞など4部門を受賞したことなどが書かれてあった。

 部屋には、テレビに接続されたビデオデッキがあった。SONY製で、型番はSL-HF55、ベータハイファイと記されてある。棚には、音楽物のビデオテープがたくさん並んでいる。そこから手に取ったのは、マイケル・ジャクソン(※注41)のスリラーだった。時間にして14分間の映像と音楽は見応えがあった。数本のビデオを見終えると、ベッドに入って眠りにつこうと、部屋の明かりを暗くした。すぐに眠りに落ちるだろうと思ったのに、なにか言いようのない違和感を覚えて眠ることができない。何かが心の奥底に引っかかったまま朝を迎えてしまった。

 休日の朝は、冬だけど青空が広がっていて、それほど寒くはなかった。午前中はマンションの周りを散策したり、テレビを見たり、ラジオを聴いたりして過ごした。80年代の洋楽は70年代に負けず劣らず素晴らしかった。ホール&オーツのキッス・オン・マイ・リスト ※注23は、音楽心に響いて忘れられない楽曲だった。

 午後3時になったら、10年前の世界に戻ることにした。こうして僕は、津々木捜査官の家に姿をあらわしたけれど、捜査官の家に人の気配はなかった。それから、とぼとぼと少年の家まで歩いて帰ると、その日は早めにベッドに入った。

 翌朝、朝食を終えていつものように玄関の扉を開いた。そこには早志くんと、ひとりの女子生徒が立っていた。「2人で迎えに来てくれて今日はどうしたの?」 僕が驚きぎみに問いかけると、「おまえ、寝ぼけてるのか?意味わからないことを言うよな。俺たちはいつも通り来ただけだぞ?」―――僕は何も言い返せなかった。

 梅野くんの家に着くと、女子生徒が玄関のチャイムを鳴らした。「おはよう!」と言って梅野くんは僕たちの前に現れると 「山本さん、犬に噛まれたらしいけど、学校休まなくても大丈夫かい?」 そう言って心配そうに彼女を見た。早志くんは 「山本さんはいつも元気だから大丈夫だよね。それにひとりでも欠けると、俺たちは“近所4人組”ではなくなるからな」と言った。

 僕は膝から崩れ落ちるような気持ちに追い込まれた。『予感は当たったんだ。やはり、ここは似て非なる違う世界だよ。10年後の未来に跳躍した時から、パラレルワールド(並行世界)に迷い込んだに違いない!』 並行世界に入り込むと、二度と戻ることは出来ないという。通学の途中、弟の敢太に何度も連絡をするが反応は無かった。僕の焦りは頂点に達しようとしていた。

 早志くんは僕の顔をのぞき込むと心配そうに言った。

「お前、顔色が悪いぞ。よほど体調が悪いんだろうな。保健室に行くか?」

★――――――――――――――――★

※注23 キッス・オン・マイ・リストは、ダリル・ホール&ジョン・オーツが1981年に発表した楽曲で、全米で1位を獲得した。後にエディ・ヴァン・ヘイレンは“キッス・オン・マイ・リスト”を気に入ったあまり、シンセ・パートをコピーして名曲“ジャンプ”で使用した。

(※注37)ホテルニュージャパンは、1982年(昭和57年)2月8日未明に発生した火災により全焼して廃業に追い込まれた。

(※注38)札幌冬季オリンピックは、札幌市で1972年(昭和47年)2月3日から2月13日まで行われた。アジア圏では初の冬季オリンピックだった。

(※注39)鈴木イチローは、2000年11月30日に日本人野手として、初のメジャーリーガーになった。

(※注40) テイラー・スウィフトは1989年生まれで、2004年にソングライターとしてデビューしたカントリー・ポップ歌手。

(※注41)マイケル・ジャクソンは1958年生まれ。シンガーソングライター、ダンサー、ビートボクサーで、「ポップの王様」と称された。1982年に発表された『スリラー』は、世紀のモンスターアルバムと呼ばれた。


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第44話 船上決戦

               1975年1月26日 日曜

 愛原さんからボトルを渡された津々木捜査官は、この小さなボトルを右手に持ってフタを回した。中身をこぼさないように注意しながら、ボトルを鼻の近くに持っていった。彼は鼻で深く息を吸って、香りの特徴を感じ取ろうとする。息をゆっくり吐き出して、容器のフタを閉めると、メモを取り始めた。

「んだな。かなり制御物質に近づいでるんだな。でも甘い香りが少し足りねぇようだぞ。もうちょっとアンバを足してみでけれ」

「そうだね。僕も津々木くんの意見に賛成だよ。やはり、甘くほのかに漂う香りが決め手のようだからね。僕はこの香りが秘めているエネルギーを感じ始めているよ。波動療法(※注36)って聞いたことあるかい?草花などを使って、体内の固まりをほぐして緩めるんだ。こうして体内を解放すると、今まで持っていなかったエネルギーが得られるという。これと似たことを起こしてくれるのが、この香料じゃないだろうか?」僕は津々木捜査官に確認してもらうことに、心強さを感じていた。

 愛原さんは、スポイトを慎重に扱いながら、極めて少量の精油を足した。僕と津々木捜査官は、順番に確認を行った。みんなが固唾を呑んで見守る中、捜査官は深くうなずくと、ひと呼吸おいて口を開いた。

「こりゃだ。やっと100点のもんができた! しかまくん、あ、いや、まやくん、未来はすぐそこだべさ。みんなようがんばっただべ」

 メンバーは、達成感に満ちた表情を浮かべてガッツポーズをした。梅野くんは感慨深げに 「溶剤抽出から始めて、調合まで足掛け2週間を要したよ。でも遂に完成したね。 摩耶くん、これからはどのように進めるの?」

「そうだね。完成した制御物質を実際に試す段階になったから、試しにタイムリープをしなければいけないね。みんなを危険にさらすことは出来ないから、僕が実験台になって検証してみようと思う。まずはこの理科室で10分前の過去に跳躍してみよう。成功すれば僕の姿は消えてなくなり、10分後には再び現れる。みんな、よく見ておいて欲しい」

 完成したボトルとスポイトを捜査官に渡すと、僕の身体に適量を塗ってもらった。 ここからは、弟が教えてくれた手順通りに進めていけばよい。頭の中で、跳躍する為の準備設定をして、キーワードに願いを込めた。これで僕の身体は徐々に薄くなって、消えるはずだ―――

 

――――理科室では、みんなが固唾を呑む中、捜査官が小さな声で 『んだ、んだべ』としきりにうなずいている。『こりゃだ。やっと100点のもんができた!』みんなはガッツポーズをして笑顔を見せている。―――「みんな、よく見ておいて欲しい」と僕が言う。こうして、やがて僕の身体は消えてしまった。津々木捜査官を除いたみんなは、誰もが蒼ざめていた。「ほんとうに消えたよ! どうしよう?」ちょっとした騒ぎが続く。もうそろそろ10分が経過する頃だ。

 捜査官は笑みを浮かべていたが、メンバー3人は心配そうに、半透明で現れつつある、僕の姿を凝視している。「摩耶くんが現れたよ!まるでマジックショーを観ているようだわ」 越川さんは感嘆の声を上げた・・・大成功だった!

「検証を重ねる必要はあるけれど、まずは10分間のタイムリープは成功した。これもみんなのおかげだよ。ところで梅野くんにお願いがあるんだ。期末テストの前まで理科室を借りられるよう、七島先生に延長の交渉をして欲しい。まだやり残していることがあるからね。引き続き、越川教授へ提出するレポート作りも進めようね」

 梅野くん、愛原さん、越川さんは途端に困った顔つきになった。愛原さんは、「私たちはどこまで本当のことを書けばいいのかな?」と疑問を投げかけてきた。

 梅野くんは 「僕たちの研究は、あくまでも新種の香料を作ることだと考えよう。リラックス効果が高く、気持ちを落ち着かせてくれるオイルのことだよ。完成したボトルは、摩耶くんが必要とする用途だけでなく、新種の香料という副産物を生んだ。幸いにも越川教授は愛原さんが要望した量の2倍のアンバーグリスを提供してくれている。 僕たちはこの原材料の半分を余すことなく使って、みんなに喜んでもらおうよ。そもそもタイムリープのことをレポートに書いても、誰も信じてはくれないからね。さあ、みんなで協力して“新製品開発レポート”を作成しよう!」

「梅野くんはええことゆうな。すげぇよ、おどがめんけがったべ。うちの部署で捜査官として働いてくれんべ?」

 僕は笑いながら言った。「津々木くん。ここにいるメンバーは信頼できるから、標準語を使って構わないよ。ちなみに『おどがめんけがった』とは、『君のことが気にいった』ということだよね。だからといって、この場でリクルートするなんてね」

 相川詩織さんからは、手紙の返事が昨年末に届いていた。彼女は手紙の中で、通信遮断していた僕のデバイスチップは、間違いなく復旧すると予見していた。そして、小津の動向については気になることを書いていた。

『小津は言っていたわ。昨年の夏、配下の人間を17名も失ったのは大きな打撃だった。 それに密輸ルートを断たれた為に、資金が底をついている。だから小倉の街に新たなアジトを作って、組織の立て直しを図ろうと考えているみたい。高額収入をうたったアルバイト募集でメンバーを募り、採用すると軍事訓練まがいの教育を行う。それはとても忙しい日々が続いているようだわ。学校の授業が終わると、小倉駅まで列車で向かう日々で、寝る暇も無いなんて言っていた。そのうち反転攻勢に出て、汚名返上するのだと口癖のように言っている』

 小津も空間移動装置を使っているから、小倉の街を行き来するのに、列車なんて使う必要はないはずなのに。もしかすると、空間移動装置が使えない事情を抱えたのかな? 彼の懐事情はよほど切迫しているのかも知れない。空間移動ができなければ、“裏の仕事”に重大な影響を及ぼしかねない。

 翌日の昼休みに、津々木捜査官が僕のクラスにやってきた。「大事な話だべ。ちょっと2人だけで話をしよう」校庭の手前にある大きな樹木が立ち並ぶ一角まで行くと、捜査官はあたりを見回した。誰もいないことを確認すると 「重大な情報を得たぞ!小津の率いる犯罪集団が、麻薬を密輸入しようとしていることが分かった。それにしても性懲りもない奴だが、真鳥くんが言うにはこれはかなり大きな取引だということだ」

「彼は追い詰められていると聞いているから、ここで挽回しようという考えだね。それはいつ実行されるの?」

「4日後の1月26日だ。東南アジアから空輸した密輸品は那覇港で貨物船に積み込まれる。出港した貨物船は、鹿児島と大分を経由して豊後水道を通過する。下関港には15時40分に入港する予定になっている。小津の集団は総勢20名。港で待ち受ける者たちが4~5名で、乗船して密輸品を監視する者は10名程度だろうと見積もっている。奴らが乗船するタイミングは、大分港に寄港した時という情報を得ている。小津は過去の失敗がトラウマのようで、今回は自ら乗船して陣頭指揮に立つようだ」

「こちらの体制はどうなんだろう。十分に整うのかな?」

「この機会を絶対に逃すわけにはいかない。今度こそ、小津を現行犯逮捕して裁きを受けさせるつもりだ。真鳥くんが所属する水上警察署の捜査官4名を中心に、我々警察庁の職員が3名。それに沖縄麻薬取締支所から、アキラが応援に駆けつけてくれる。そうすると8名の精鋭が揃うことになる」

「アキラが来てくれるんだ!早く会いたいな。超能力者が味方だから頼もしい限りだよ。それで僕は何をしたらいいの?」

「これは、奴らアンダーワールドの住人たちとの最終決戦だ。君たちを危険な目に合わす訳にはいかない。当日は貨物船の通過を見計らって、海峡に架かる橋の上から、甲板上に飛び降りて急襲するつもりなんだ。君らは小高い山の上に登って、高みの見物でもしていてくれたまえ」―――――

 

―――――あと10分で、貨物船が橋の下を通過すると思われる、1月26日14時50分を迎える。今日は朝から吹雪くあいにくの天候だった。海峡で最も狭い個所に架かる橋に向かって、玄海灘から次々と風雪が流れ込んでいる。吹き荒れる雪は視界を奪ってしまう。捜査官たちにとって、今日は最悪のコンデションだった。

 津々木捜査官たちは橋の上に乗用車を2台停車させて、貨物船がやってくるタイミングを計っている。僕と梅野くんは、赤江瀑先生のタイムマシンに乗船させてもらっていた。昨晩、先生に電話で事情を説明して、緊急事態が発生した時は、マシンを救護車輛として使わせて欲しいとお願いしていた。先生は二つ返事で快諾してくれた。

 今日は、タイムマシンを空間移動装置として使っている。それはヘリコプターが飛び回るイメージ。大好きな早鞆の瀬戸(はやとものせと)を縦横無尽に飛び回ることは、先生もまんざらでもないようだった。

 橋の上では捜査官たちがその瞬間を待っていた。飛び降りるといっても、橋から海面までは61メートルの高さがある。甲板上でも52メートルはあるだろう。飛び降りるという事はすなわち死を意味する。津々木捜査官は、14歳のアバターを28歳の成人に変身させて、背広を着ている。携帯通信機を耳に充てながら何か会話を交わしていた。おそらく警察庁職員である和子さんに、空間移動するメンバーの座標値と、開始時刻を伝えているはずだった。

 一瞬にして、停車車両の周りに立っていた、背広姿6名の姿は忽然と消えた。ただそこには、バイクにまたがったアキラがひとり取り残されている。突然、アイドリング状態だったバイクは唸り声をあげた。アキラがギアチェンジをした次の瞬間、バイクは橋を飛び出して真っ逆さまに海へと消えて行った。おそるおそるマシンのモニターに映る船の甲板に目を移すと、アキラはバイクに乗って早くも縦横無人に暴れ回っている。 アキラは、おそらくサイコキネシス(念動力)を使って、甲板上までテレポート(瞬間移動)したのだろう。

 先生は貨物船の甲板付近までマシンを移動させた。そして、船上の壮絶な光景を目の当たりにする。そこでは、捜査官たちと敵との銃撃戦が繰り広げられていた。敵のリーダーである小津は、ひとり操舵室に立てこもっている。捜査官たちは、船内で逃げる敵を一人ずつ倒しながら、操舵室に近づいて行く。梅野くんと僕は顔を見合わせて 『とてもじゃないけど、僕らの出る幕ではないね』と、アイコンタクトを交わした。

 操舵室では、津々木捜査官と小津との一騎打ちが始まっていた。彼は、小津にあえて素手で格闘を挑んだ。非道な犯罪者である小津に憎しみを抱いているにも関わらず・・・捜査官は、小津とは同級生として1年余りを同じ学校で過ごしている。そんな小津に、彼は銃口を向けることができなかったのだろう。

 真鳥捜査官は、爆弾が仕掛けられた船内に降りて行った。敵が近づくのを察知した犯人たちは、起爆装置を起動させると、一目散に逃げ出した。彼はとっさに爆弾を抱えると、甲板に出て海に投げ込もうとしたが、起爆する時間はもう僅かしか残されていなかった。

 彼の背後からバイクが猛スピードで近づいてきた。アキラは真鳥捜査官が抱える爆弾を左手で取り上げ、甲板上からバイクごと海に向かってジャンプすると、爆弾を海に投下した。次の瞬間、爆発の水しぶきが高く上がった。僕たちは、あと数秒遅れていたらと想像してぞっとした。アキラはバイクに乗ったまま、海中からゆっくりと甲板へと上がって来た。まさに超能力の成せる業だった。

 操舵室では、小津が格闘を続けていたけれど、遂には抵抗空しく、津々木捜査官に手錠を掛けられた。

 僕と梅野くんは、敵味方を選ばずに、銃撃戦で傷ついた人たちをマシンに乗せた。 6人もの人が手や足などに銃弾を受けていた。取り急ぎ傷口にガーゼを当て、圧迫止血を行って包帯を巻いた。港では、岸壁で待ち受けていた犯人たちが確保されて、救急車が数台待機しているという。そこまで6人をマシンで運ぶと、役割を終えた僕たちは、貨物船が港に接岸するのを待った。

「早鞆の瀬戸や巌流島は、古くから源平の合戦や武蔵と小次郎の戦いなど、対決の場として人々の記憶に残る処だが、君たちはまた歴史に新たなページを加えたね。貴重な体験をさせてもらったよ。私の創作意欲をおおいに刺激させてくれた一日だった」 赤江先生は感慨深げに話した。

 小津は肩を落として、うつむき加減に下船してきた。彼は、僕の視線に気が付くと、後ろめたい表情をうかべて、警察車両に乗り込んでいった。 真鳥さんやアキラも後に続いて船から降りてきた。

「It’s been ages. I’m delighted to see you again.」

(久しぶりだね。また会えてうれしいよ)と、アキラに言うと、

「This is my first visit to Shimonoseki, but I’m impressed by how nice it is. I’m enjoying it here.」

(初めて下関に来たが、なかなかいいところじゃないか。気にいったよ)と、言ってくれた。

 真鳥さんは 「命拾いしたよ。アキラが助けてくれなければ、私は此処に立っていない。さあ、今日の仕事はもう終わったようなものだ。ほら、豊前田のラウンジが我々を呼んでいるよ!アキラと私は行くが、摩耶くん達はどうする? どうだい、綺麗な女の子を紹介するよ?」

「今日はこれから、赤江先生にタイムマシンの話をお聞きすることになっているので、難しいですよ。それより大活躍してくれたアキラさんを、十分にねぎらってあげて下さい」

★――――――――――――――――★

(※注36)波動療法とは、すべての物質が持つ固有の波動(振動)を利用して、人体のエネルギーバランスを整えることで、病気や不調にアプローチする医療のこと。人体の細胞や器官は、電気信号や電磁場を発生させており、それらが波動として伝わっている。波動は、健康な状態では一定の周波数を保つが、ストレスや感染、毒素などで乱れたり減衰する。その結果、身体の機能が低下し、病気や不調が起こる。波動療法は、乱れた正常な周波数に戻すことで自然治癒力を高める。また、花や草木のエネルギーを利用した波動療法がある。

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第43話 溶剤抽出法

               1975年1月8日 水曜

 寒い朝は苦手だった。目覚まし時計が鳴り続けていても、ベッドから起き出す気力が湧いてこない。布団がどれだけ恋しいことか、もう少し寝ていたい誘惑にかられる―――部屋のドアが突然開いて、少年の母親が入って来た。「時計が鳴っているじゃない。うるさくて仕方ないのよ。近所迷惑なのが分からないの?今日から学校なんだから早く起きなさい!」 彼女はそう言い放つとキッチンへと戻って行った。

 そうだ、今日は3学期の始業式だった。しかも越川さんが“アンバーグリス(龍涎香)”を持ってきてくれる大切な日だった。それを思い出した僕は、慌てて布団を蹴ると起き上がった。

 母親の大袈裟で厳しい言葉は、目覚まし時計よりもはるかに効果がある。しかし、起きたとしても家の中は寒々しい。ストーブなどの暖房器具を一切使っていないからだ。 これは、長引く物価高に対抗する手段として、彼女が考えた会心の策だった。

 暖かい味噌汁でご飯を掻き込んでいると、テレビの音に気が付いて居間に目をやった。天気予報は 『今日は雪まじりの強い風が一日中続くでしょう』 と言っている。玄海灘から吹き込む横殴りの風だけでも憂鬱なのに、雪まで降るのかと思うと、気落ちするばかりだった。

 僕はため息をつきながら、学生服の下にセーターを着こむと、早志くんが外で待つ玄関を出た。「これだけ寒いとたまらないね」と言うと、早志くんは「そうか? でも所詮、寒さや暑さというのは、単なる人間の感覚に過ぎないからな。そもそも、この世界には意味や目的なんてものは無いのさ」と、やけにニヒルな返事をした。

 2人で梅野くんの家まで向かう途中、遠くに中学校の校舎が見える、視界の開ける場所に出た。そこは、さえぎる建物がなく、田畑だけの平地が広がっている。その途端、吹きすさぶ風と、横殴りの雪にさらされた。「アンビリーバブル!こんな馬鹿げた寒さがあるかい?きっと顔も凍り付くような氷河期がやって来たんだよ」早志くんは顔を歪めて驚きの声を響かせた。僕は笑みを浮かべながら 「熱くなり過ぎた地球を冷やす意味で、氷河期もまた必要なのさ」と言った。

 冬休みに入る直前、デバイスチップは完全に復旧した。僕は急いで弟の敢太にメッセージを送ると、その後はデバイスチップを通じて、彼との会話を始めた。

『敢ちゃん、どうして僕が行方不明だと気がついたんだ?そちらの世界では、キュビットシステムの研究所に勤務している僕がいるだろう?』

『そうなんだけど、半年ほど前に、その彼に違和感を覚えたんだ。例えば僕の書いた論文に対して、以前くれたアドバイスとは真逆のことを言ったりしてね。理論的過ぎるんだよ。少し大袈裟だけど、別人のように思えてきた。言い換えると、その話しぶりはプログラムされたAIのように思えたよ。ちょっとした差だけど、人間は自由な意志や倫理観を持って動くものだよね。それ以来、兄貴はどこかに行ってしまったと考えるようになった』

『よく気が付いたな。僕は70年前に跳躍した時、意識が他人の身体に入り込んだ。だからその時から研究所にいる僕は、無意識がコントロールをはじめた。無意識が取る行動は、理由のない衝動や反射的な反応によって起こることが多い。その反面、意識が取る行動は、自分の目標や価値観に基づいて選択され、その行動理由も説明できるんだ・・・これを“人間らしさ”というんだよな』

『研究所の兄貴は他人だと疑ったから、遠隔操作で彼のデバイスチップをスキャンしてみた。電気信号化された全ての履歴を取り出し、大学のコンピュータで解析したところ、わずかな変化が確認できたんだ。それは2043年6月29日午前1時20分のデータ。微弱な揺らぎのような変化だけど、ここでチップは2つに分岐したと思われる。その後、1時28分には分岐した片方の電気信号は忽然と消滅している。つまり70年前の兄貴は、この世から消滅したんだよ』

『そうだったのか!小津は僕を被験者に選び、2043年6月29日午前1時20分にそれは実行された。生物工学研究所の研究者たちは、タイムリープに成功した治験データを即座に収集したのだろう。そして証拠隠滅のために、8分後に僕のデバイスチップとサーバーの通信を遮断したんだ』

『更に、抽出した8分間の微弱な電気信号を、量子コンピュータで解析してみたよ。 すると兄貴のデバイスチップが特定できた。それでメッセージの送信を始めたという訳なんだ』

『なるほど!デバイスチップが2つに増えたのは8分間だけだ。だからこれまで政府は違反に気がつくことがなかった。ところが、今回の復旧で新たなデバイスの存在を検知して、政府は警告メッセージを僕に送ってきたよ。敢ちゃん、どうしたらいいだろう?』

『だったら、研究所にいる兄貴のデバイスチップを一時的に遮断してみよう。そうすれば当面は誤魔化せるだろうよ。心配しなくていい』

 2組の梅野くんは、始業式が始まる直前に教室の外から僕を呼んだ。「理科室と実験室の使用許可がやっと下りたよ。放課後の1時間を使っていいことになったから、今日は始業式の後に理科室に集合だ。ただし、七島先生が時々様子を見にくるという条件付きだけどね」

 放課後になると、理科室に“とあるメンバー”が集合した。越川さんはアンバーグリスを持ってきてくれた。机の上に置かれたのは、小さな浮石のような塊だった。僕たちはそれをじっと見つめると、甘く土のような香りを嗅いだ。越川さんは教授からの伝言で、調合する手順を話し始めた。

「アンバーグリスのエッセンシャルオイル精油)を作る方法には、エタノールなどの溶媒に原料を漬けて、その後に溶剤を取り除くという、溶剤抽出法というのがあるらしいわ。他には、アンバーグリスを椿油に漬けこんで、非加熱でじっくりと香りを抽出していく方法もあるのよ。でもこれだと、抽出に数か月の時間を要すると父は言っていたわ」

「だったら、そんなに時間を掛けられないから、まずは溶剤抽出法でやってみてはどうだろう?」と、梅野くんが提案した。

 愛原さんは、越川さんが説明する溶剤抽出法の手順を、黒板を使って整理した。「まず、アンバーグリスを細かく砕くのね? 次に、その砕いた粉をエタノールに浸す。そして・・・時間を置いて、溶媒に溶け出した香り成分を別の容器に移します・・・・・・溶媒が蒸発すれば香り成分だけが残るのよね・・・最後に、残った香り成分から不純物を取り除けば完成。これでいいかな?」

 僕は作業に協力してくれるみんなに、お礼とお願いをした。「協力してくれて、心から感謝します。それでは、作業に取り掛かる前のお願いです。アンバーグリスの溶剤抽出は、みなさん3人で進めてもらえますか? 次に、ラベンダー・ローズマリー・ビャクダン・ゼラニウムを調合したボトルがこれです。溶剤抽出が完了すると、抽出した精油をこのボトルに加えますが、この作業は愛原さんにお願いします。これは最も慎重でなければならないので、3組の津々木くんにも確認をお願いしました。僕と彼の意見を聞きながら微調整して欲しいのです。彼は、僕たちが目指す香りを最もよく知る人物だから、頼りになるはずです」

 理科室のドアが開き、七島先生が入ってこられると、室内の様子を確認された。 「気持ちを落ち着かせることができる、新たな香料を作るなんてよく考えたものね? リラックス効果が高ければ、勉強や仕事にも役立つでしょう。完成したら先生にも使わせて欲しいな。ではみんなで協力して頑張ってみなさい」そう言って先生は理科室を出て行かれた。

 3人は溶剤抽出の準備に取り掛かった。アンバーグリスを細かく粉砕する。砕いた粉を次々とエタノールに浸していく。エタノールや必要な器具は実験室に揃っているから、作業は順調に進みそうだ。 

 僕にはまだ解決すべき課題が幾つか残っている。中でも先決すべきは、仕上がった香料、つまり“タイムリープの制御物質”の操作方法を、確認することだった。津々木捜査官や真鳥さんは、頭の中で念じればそれで良いと言っていたが、もう少し具体的に知っておく必要がある。ここは弟に相談するのが一番だ。

『敢ちゃんに“タイムリープの制御物質”の操作方法を調べて欲しいんだ。もしかすると、キュビットシステムの研究棟に入っている、生物工学研究所のコンピュータにデータが残っているかも知れない。できたら制御物質の成分や作り方なども分ると助かるな』

『うーん、それは結構ハードルが高いなあ。そのような情報は機密性が高いだろうから、簡単にアクセスできないかも知れない。どの程度のセキュリティ対策が取られているか分からないけど、やるだけやってみるよ』

『無理しないでいいからな・・・』

『まぁ、任せておきなよ。僕はホワイトハッカーだと自認しているけど、こんなことばかりしていると、世間はサイバー犯罪まがいのブラックハッカーだと思うかも知れないね。でもここは頑張って、ハッキングの成果を見せてあげるよ』

 家に帰って入浴と食事を済ませて部屋に入ると、机の前で眠気に負けて、うとうとしてしまった。知らない世界を浮遊している不思議な夢を見た。その夢には、なぜかBGMが付いていた。曲名は『夢の夢』※注22 という。

★――――――――――――――――★

※注22「夢の夢」(#9 Dream)は、ジョン・レノンが1975年1月にリリースした曲。4枚目のソロアルバム『心の壁、愛の橋』からシングルカットされた。この曲は、ジョン・レノンが夢で聞いた言葉や、メロディーをもとに作ったと言われる。曲名はジョンのラッキー・ナンバーである9にちなんで名付けられ、アメリカのビルボードチャートでは9位まで上昇した。


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第42話 通信遮断

               1974年12月24日 火曜

 2学期の終業式が始まり、明日からは冬休みに入る。校長先生は式の冒頭で挨拶をされた。「みなさんの中には、東海道新幹線に乗った人もいるでしょう。今は岡山までの山陽新幹線も、年が明けて3月10日になれば、博多までつながることになります。しかもこの町に新駅ができるのです。私たちが待ち望んでいた、世界一のスピードを誇る新幹線がやってくるのです。皆さんに、この素晴らしい乗り物を是非とも体験して欲しいと思っています。ですから、来年の修学旅行は関西まで新幹線で行くことを検討しています。楽しみに待っていてください」 こう言ったものだから、体育館はどよめきに包まれると同時に、我々2年生を中心に喜びの声が上がった。

 校長先生のわくわくする話は、僕にとっては上の空でしかなかった。なぜなら、今の最大関心事は、脳に接続されているチップが発する音だったから・・・途切れ途切れで不鮮明な音声は、昨日になると会話として聴こえるようになっていた。

 当初は、3時間おきに聴こえてくる音声を、幻聴ではないかと疑った。でも、今では敢太の声に間違いないと確信するようになった。しかしなぜ、弟の呼びかけが突然聞こえるようになったのだろう? しかも 『陵汰兄ちゃんはどこにいるんだよ?』と呼びかけてくるではないか? これらの謎が明らかになれば、元の世界に戻ることができるような気がする。

 この、寝ても覚めても聴こえてくるメッセージ。その呼びかけの声はいつも弟であり、毎回同じ内容だった。弟は発信するメッセージとタイミングを、彼のデバイスチップに設定したのだろうか?それがサーバーを経由して繰り返し発信される。ただし、この呼びかけに僕が返事を試みても、こちらからの発信は弟に届いていないようだった。

 どうしてチップが突然動き始めたのか?・・・・・・始まりは木星から地球へ帰還する時だった。思い返せば、月から木星への移動は光速の1.5倍。そして地球への帰還は光速の1.2倍という、常識では考えられない航行速度だった。まさにその時にチップは動きだした。―――理由は分からないけれど、光の速さを超えたことが、デバイスチップに何らかの刺激を与えたのではないか? これが通信障害を復旧する自動回復機能を起動させたと考えられる。そして、自動回復機能が動き出して、今も補修を続けているのだと思う。

 おそらく、もう少し待てば完全復旧するだろう。ここはプラス思考で楽観的に構えておくことにした。

 僕は名古屋の相川詩織さんに手紙を出した。通信遮断されていたチップから、鮮明ではないが音声が聴こえてきたこと。そして、小津の動向について何か分かれば教えて欲しいとも書いた。

 これまで、脳に埋め込んだチップを、ここまで気にすることはなかった。しかし考えてみれば、デバイスチップはひとりの人間に1つが条件のはずだった。 そうでなければ、管理する側の政府は困ることになる。ひとりの人間が複数のIDやアカウントを持てば、管理者が混乱してしまうのと同じだ。

 購入したチップを大脳皮質に埋め込む手術をすると、デバイスチップは脳とリンクされる。すると、生体情報がサーバーへと送り込まれる。それは、ひとりの人間が生きている証とも言える膨大な情報量になる。チップは人間の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という、五感情報を政府のサーバーに蓄積させる。もちろん、氏名・年齢・性別・住所などのメタ情報(付帯情報)や、プロファイル(人物像)も登録されている。言い換えれば、僕の正体や行動履歴は、政府から常に監視されているということになる。

 ところが、僕はタイムリープと同時に意識スライドをして、“摩耶浩之”という他人の身体に意識が入り込んでいる。相川さんは僕に説明してくれた。元の世界(2043年)では、意識が抜けた僕、“鹿間陵汰”を、無意識がコントロールしながら生活をしているという。

 僕の意識が入り込んでいる今の“摩耶浩之”は、翻訳機が使えるのだから、脳にチップが存在している。一方で、本来の僕である、“鹿間陵汰”にもチップが存在する。そうすると、政府は2人の鹿間陵汰を認識するはず・・・・・・そうか!分かってきた。双方向通信が可能な翻訳機は、あくまでもデバイスチップの一部でしかない。チップの大半を占めるデータベース基盤は、通信遮断されたままになっている。しかも、70年前にタイムリープした時から遮断されている。通信遮断されている限り、政府が2人の鹿間陵汰を認識することは、ないということになる。

 このように、“摩耶浩之”に入り込んだ鹿間陵汰の五感情報は、サーバーに送信されることはなかった。これまで、政府は1人の鹿間陵汰だけを認識していた。ところが、通信障害が完全復旧すればどうなるか? 政府は鹿間陵汰が2人存在することに間違いなく気がつく!

 デバイスチップを複数所持するケースについて整理をしてみよう。

 過去や未来へ“意識スライド”して他人の身体に入ると、意識に繋がっているデバイスチップも一緒にスライドする。その人は今現在の世界に残っていて、無意識が体をコントロールしている。だから、1つのチップが2つに増えたことになる。

 過去へタイムリープをした場合はどうだろうか?・・・過去に跳躍した瞬間に、その人は今現在の世界から消えていなくなる。だから、チップは1つで変わりはない。

 未来にタイムリープをした場合はどうだろう?・・・未来に跳躍した瞬間に、その人は今現在の世界から消えていなくなる。だから、チップは1つのままで変わりない。

 津々木捜査官や真鳥さんのように、アバターを使ってタイムリープをする場合・・・今現在の世界では、警察庁の時空間移動センターにあるカプセルに、その人は入っている。そして常にアバターと意識を同期しているから、この場合もチップは1つのままで変わりない。

 こうしてみると、“意識スライド”だけが、複数のデバイスチップを所持することになる。

 小津真琴やアンダーワールドの構成員たちは、正規のデバイスチップを持たない。そんなことをすれば、政府に登録されて行動を全て監視されてしまうから、悪いことは何もできない。だから、彼らは闇市場で手に入るデバイスチップを使う。非正規品によって独自のネットワークを構築している。

 ホームルームが終わって下校時刻になった。すると1組の教室には、とあるメンバーが集合した。梅野くん、愛原さん、越川さん、そして僕の4人だった。年明けから開始する、アンバーグリスの調合手順などを話し合うのが目的だった。更に梅野くんは、放課後に理科教室を使用したいと、許可願いを学校へ提出していた。彼は七島先生を通じて学校側に交渉を続けてくれていた。

 役割分担について意見交換をしていた時だった。頭の中に突然、警告メッセージが鳴り響いた。『あなたのデバイスチップに異常が検出されました。至急、最寄りの医療機関で診断を受けてください』

 思った通りだった!このメッセージは、デバイスチップが完全復旧したことを意味する。しかし、僕はメッセージに対してどのように反応したらよいのだろうか?

 打合せを終えて帰宅した僕は、勉強部屋のドアを開けた。すると、またメッセージが聴こえてきた。でもそれは弟の敢太が発信するいつもの声だった。

 すかさず、僕は弟に返信メッセージを発信した。

『敢ちゃん、これまで連絡することができなくてごめん。ようやく通信が復旧したんだ。僕は70年前にタイムリープしている。でも大丈夫、元気に暮らしているよ。それより、取り急ぎ助けて欲しいことがあるんだ。それは・・・・・・』

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星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第41話 月面着陸

               1974年12月22日 日曜

 赤江瀑先生の、2回目実習に参加するために、朝早くからバスに乗っていた。ただし、前回と違っているのは、今日は梅野くんと僕の2人だということ。

 昨日の土曜は、水産大学の“海洋学教室”を聴講して、1時間のランチミーティングを過ごした。その後、取り計らって頂いた越川教授に、口々にお礼を言うとキャンパスを後にした・・・・・・

「0.5グラム、そのわずかな量を分けて頂けないでしょうか?」食事を取りながらの質疑応答の時、愛原さんは教授に大胆なお願いをした。僕たちはお互い顔を見合わせた後、教授がどのように反応されるのか注目した。愛原さんは 『言うべきではなかったかな?』と後悔の念に駆られているように見えた。

 誰一人声を発しない時間が流れた。学食の厨房からは、食器を洗ったり片付けたりする音が響いている。教授はというと、両腕を組んで目を閉じたままだったが、やがて目を開けると、「探求心を持って取り組む人というのは、周りに刺激を与え、自分自身も成長できる。たいへん良いことだ。了解した!分けてあげることにしよう・・・ちなみに、アンバーグリスが高額だから躊躇したのではない。あくまでも研究用に頂いたものだから、研究の為にという、あなたの言葉を信じてのことだよ」

 僕たちは、先ほどまでの張り詰めた雰囲気から解放されると、和やかな空気に包まれた。終始心配な面持ちだった越川さんは、安堵の表情を浮かべて笑顔がこぼれた。

「ただし、ひとつ条件を付けよう。その新しい香りを作る研究について、レポートを作成してもらいたい。それを然るべきタイミングで提出してくれるかね。手間を掛けるが、私も研究成果に興味がある。年明け早々には、原料を渡せるように大学への手続きなどの準備を終わらせて、翔子に持たせようと思う。0.5グラムでは心もとないだろうから、その時には1グラムを用意しよう。レポートは君たちが協力して作成してもらって構わない。その新しい香りが完成するよう私も願っているよ」―――

―――乗車したバスは、海峡沿いの幾つものカーブを曲がりながら、今ではすっかり見慣れた風景を、車窓に映し出していた。昨日の夕方、水産大学から自宅に戻ると、赤江先生の都合をお聞きするために電話をかけた。

「お忙しいのに時間を作って頂きありがとうございます。ところで、ひとつお願いがあるのですが、明日は同級生を1人連れて行っても良いですか?」

「それは構わないが、君はなぜそう考えたのかね? 信頼のおける人物だと判断したのだと思うが、どうなのかね? タイムマシンという非日常的な、いや非現実的ともいえる乗り物を体験した時、人によっては突発的な不安や恐怖で混乱状態となる。また、それに伴う錯乱した行動を起こすことも十分考えられるのだよ」

「彼は何事も論理的に捉えて行動しますから、その点は心配に及びません。それに、引き起こされる奇異な現象や、秘密を知ったところで、自分を見失うことはないでしょう。その友人は、現在の私を救ってくれるだろう、重要な人物なのです。彼に協力者になってもらう為にも、アインシュタイン相対性理論を超えた、時空間概念を肌で感じてもらうのが一番だと考えました。ですから、タイムマシンの体験こそが早道だと思うのです」―――

 僕たちは県立高校前でバスを降りた。そこからは、校舎とグラウンドに挟まれた道を歩く。

「振り返ってみれば、確かにこれまでの君とは何か違っていた。強く感じたのは、去年の6月だった。一緒に登校して、下駄箱の前に立つと『上履きが無い!』と叫んでみたり、教室の入口で『僕の机がどこか思い出せない』なんて言ってたね。どこか変だとは思ったけれど、まさか別人にすり替わっていたなんて・・・でも、そんなあり得ない事が現実に起きていたんだ」

 先生のお宅へ向かう道すがら、もう少し話を続けた。僕がタイムリープによって、1973年の世界にやって来た日のことや、摩耶少年の身体に“意識スライド”という現象で入り込んだことを打ち明けた。僕は元の世界に戻りたいと熱望している。それが叶えば、少年の意識は戻り、以前の摩耶浩之になるだろうと説明した。その後、梅野くんは僕の話を噛み締めながら、疑問に思ったことを幾つか質問した。

「およそ理解できたと思うよ。それで、君の協力者になるのは良いけれど、具体的には何をすればいいのかな?」

「僕が何か実行しようとする時に、意見を聞かせて欲しい。正しい判断なのか?抜け落ちている問題点はないか? そんな客観的なアドバイスが僕にとっては心強いんだよ」

「わかった。頑張ってみるよ」 彼がそう言ってくれたのは、先生のお宅が見えてきた辺りだった。

 僕は先生と挨拶を交わして、梅野くんの紹介をした。先生は目を閉じて、早速タイムマシンを起動する準備に入った。そして目を閉じたまま話を始めた。

「今日の実習は、過去を検証することに加えて、未来への旅行を試そうと考えている。梅野くんは、時空間移動を体験してみてくれたまえ。タイムマシンを体感することで、これが非現実的な空想ではなく、現実なのだと確信してくれることを願うよ」

 暫くすると、僕たちは船内の大型モニターの前に立っていた。暗い船内は徐々に明るくなり、前方にある操作パネルには“1969年7月21日2時56分”と表示されていた。

「タイムマシンは過去や未来を旅行する機械だ。そして、時空間移動というからには、すなわち空間移動も自在だということなのだ。さて、大型モニターに映っているこの天体は月だよ。我々はさきほど地球を出発して、わずか1.3秒で月に到着したという訳だ。 地球と月との距離は38万km。光の速度は秒速30万kmだから、我々はここまで光の速さで移動したことになる。パネルの年月日を見て、今ここで何が起きようとしているのか分かるかね?」

アポロ11号が、月面着陸を試みているのではないですか?」 梅野くんがすかさず答えた。

「そうだ。月面に着陸するまさにその瞬間だ。目の前の操作パネルは、アームストロング船長が月面に降り立つ時刻を表示している。アームストロングとオルドリンは、着陸船『イーグル』で静かの海に降りた。2人はこれから21時間半を月面で過ごしたのちに離陸して、司令船『コロンビア』に合流することになる。そして地球へ帰還するために月軌道を離脱するのだ」

 この歴史的瞬間を、複数の補助ディスプレイが様々なアングルで映し出していた。 それを一通り見終えると、僕と梅野くんは顔を見合わせた。

「これだけ貴重なシーンを、直に目撃するなんて信じられない。夢ではないかと、疑いたくもなりますね」 梅野くんは、歴史的なシーンを目の当たりにして、驚きを隠せず先生に感想を語った。

「これを見て夢だと思うかね? 『アポロ11号は、実は月に行っていない。スタジオでセットを組んで着陸シーンなどを撮影したのだ』このような陰謀説がささやかれたりもする。つまり、完璧に仕組まれたフェイク映像だと疑う人が、少なからず存在するのだ。公開された画像を見て、捏造と決めつける行為も絶えない・・・・・・君たちが今ここで目撃したことは、あらゆる角度から全てマシンに記録されている。これで真偽の判定はたやすい。我々の周りを見たまえ! 数多くのタイムマシンが未来から飛来してきて、近くに浮遊して観察しているだろう? 捏造だとすれば、このような事はありえない」

 その後、僕たちのタイムマシンは木星の第1衛星『イオ』へと向かった。月から木星までの距離は、7億7千8百万kmとパネルに表示されている。アポロ11号の巡航速度である、秒速11キロメートルで向かえば、2年2ヵ月かかる。光速であれば所要時間は25分。ところがこのマシンは16分40秒で到着した。光の速さの1.5倍の速度が出ていたことになる。

「梅野くん、光速をはるかに超えて、17分足らずで木星に到着しているよ。僕も初めての体験だったけれど、これはアインシュタイン特殊相対性理論で主張した、“宇宙における最大速度の光速度を超えて物質が移動することはできない”、という理論を打ち破っている。僕は、2043年では新たな理論を追求する量子力学研究所に勤務していたから、この分野には少し詳しいんだ。遥か先の未来は、量子物理学を発展させることができた。そして人類は、光速を超える宇宙船やタイムマシンを開発したということだね」

 梅野くんは苦笑いを浮かべながらこう言った。

「僕は目の前の現実を、当然のこととして受け入れる他ないと悟ったよ。だから余計なことは考えないことにした。そうでなければ、自己認識や自己存在意義は崩壊してしまうだろう。これは僕の人生観を変えてしまった貴重な体験だよ」

 先生は、大型モニターを指差して説明してくれた。

「ここに映し出されたのは、木星の衛星イオだ。時代は西暦2800年。人類は此処にコロニーを建設して数千万人が生活している。もう少し近づいてみると分かるが、非常にバランスの取れた計画に基づいた都市が形成されている」―――

「さあ、2回目の実習を終わりにして、そろそろ家に戻ることにしよう」先生はそう言うと、速度を光速の1.2倍に設定して発進した。

 地球に帰還する途中、僕の脳に埋め込まれたチップから、何か音が聴こえてきた。 途切れ途切れに雑音が入ってくる。次第にそれは、人間の声のようなものに変わった。

『兄貴、聞こえるかい?聞こえたら返事をしてくれよ!弟の敢太(かんた)だよ。陵汰兄ちゃんは今どこにいるんだよ?』・・・・・・幻聴なのだろうと思った。

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