tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第40話 海洋学教室

               1974年12月21日 土曜

「植物にばかり目を奪われていたということね。果実は分からなくもないけど、昆虫や動物からも香り成分が採取されているなんて、知らなかったわ・・・思い込みには、気を付けないといけないわね」愛原さんは予想もしなかった原料に、少し驚いた様子だった。

 週明けの12月16日月曜、昼休み時間に、僕は愛原さんに先週の状況について話した。

 ・完成したボトルに違和感を覚えた。 

 ・複数の人たちからアドバイスを受けた。

 ・何かの原料を足すべきだと結論付けた。 

 ・足すべき原料とは、植物由来ではなく、動物由来ではないかと考えた。

「そうね、動物由来に絞り込むのは私も賛成する。時には決め打ちも必要なのよ。そう!きっとそうよ。でもね、動物から成分を取り出して調合するなんて、私たちに出来ることかしら?」

 これを聞いて、僕は自分の浅はかな考えを恥じた。まず、動物の香り成分をどのようにして手に入れるのか?入手がいかに困難であるか、想像すれば直ぐに分かるというのに・・・

「そうだね。動物の場合は、生殖腺分泌液から採取するとあるから、難しそうだな。 例えば、ジャコウジカのムスク、ジャコウネコのシベット、ビーバーのカストリウムなどがあると専門書にあった。そんな珍しい動物の成分なんて、いったいどこにあるんだろう?」

 愛原さんは暫く沈黙を続けると、次のように話を切り出した。「そんな希少動物の成分を謎の老人が使うかしら? 最近は動物保護の運動が盛んになっているから、希少動物は捕獲が禁止されていて手に入らないと思う――――――こうしたらどう? 海洋哺乳類に当たりを付けてみるのよ。つまり生存数の多い動物に着目するということ。2組の越川翔子さんのお父様は、水産大学の教授でいらっしゃるわ。だから海洋動物には詳しいと思う。相談に乗って頂ければきっと道が開けるはずよ。まずは越川さんにお願いしてみましょうよ」

 早速、僕たちは2組の教室をのぞいた。そこに越川さんの姿を見つけると、愛原さんは、「翔子ちゃん相談があるのよ、お願い!」と手招きをした。越川さんが 『いったいどうしたの?』 という顔をして教室から出てきた。

 愛原さんは僕の抱える事情を、越川さんに手際よく説明した。それがあまりに正確過ぎるので、なぜそこまで知っているのかと不思議でならなかった。知り得ないことを知る彼女は、やはりタイムリーパーに違いないと確信した。それはともかく、愛原さんのおかげで教授に会いたいという熱意は、越川さんに伝わったようだった。

「事情は十分理解できたわ。でも父はとても忙しいから、簡単には時間がとれないと思うのよ。家に帰ったら相談をしてみるから、返事は暫く待ってね」

「翔子ちゃんありがとう!良い返事をお待ちしてます」 愛原さんは嬉しそうにお礼を言った。

 翌朝、僕はプレハブ教室の前にある下駄箱で上履きに履き替えようとしていた。すると「摩耶くん、おはよう」と後ろから声がする。振り返ると、そこには越川さんの姿があった。

「父に相談したわよ。すると、大学に一度来たらどうだろう?と言っていたわ。実は、市民も聴講できる講義を父が受け持っているの。これに参加すればディスカッションもできるからと、友達を誘いあって来なさいと言うのよ。次の講義は12月21日土曜10時30分だから、4日後になるわね。それに『海洋哺乳類』を講義のテーマにしてもいいと言ってくれている」

「そうなの?それはほんとうにありがたいな。梅野くんと早志くんを誘ってもいいかな?」

「もちろんかまわないわよ。では、駅での集合時間を9時30分にしましょう」

 越川教授は、市民講座を“海洋学教室”と銘打って、月に1度開催しているという。僕は期待に胸を膨らませて当日の朝を迎えた。

 綾羅木駅に集合したのは越川さん、愛原さん、そして僕たち近所3人組だ。9時40分の列車に乗って吉見駅で下車した。駅を出て15分ほど歩くと大学の校舎が見えてきた。 梅野くんは 「こんな機会でもなければ、水産大学の校内に入ることはないだろうな」 と言って、キャンパス内をくまなく見学していた。教室の席に着いて暫くすると、越川教授が入室されて講義が始まった。

 教授は、海洋哺乳類の概要について説明を始めた。――海に生息する哺乳類は、海獣(かいじゅう)とも呼ばれる。一般的に知られるのは、クジラ、イルカ、シャチ、アザラシ。この種は、陸上哺乳類とは異なる生態を持っている。呼吸をするために水面に頭を出す必要があるから、長時間水中に潜ることはできない。また、陸上の哺乳類と比べて大型であることが多く、海洋では食物連鎖の上位に位置していること等々だった。

 聴講生たちが特に興味を引いたのは、シャチの生態だったろう。

「シャチは北極圏などの海に生息しており、体長は9メートル、体重は5トンにもなる。彼らは群れを作って生活をし、年長のメスを中心とした母系社会を形成するといった、社会性を持つ珍しい動物である。シャチは主に魚やイカ、アザラシを食べるが、集団で狩りをおこなうことがある。巨大なクジラを、群れで襲って食べる」・・・教授は更に話を続ける。

「特筆すべきは、知能が非常に高く、襲う相手の身体特徴をつかむと、その弱点を突いて仕留める。例えば、肺呼吸をする獲物が水面に出て息継ぎをするのを妨害して溺死させたりするのだ。また、クジラと同様に2種類の音を使い分けている。1つはコールと呼ばれ、メンバー同士のコミュニケーションに使用する。もう1つはメロン(クリック音)と呼ばれる音波を発射して、反響音を感じることで前方に何があるか判断する。 しかも、エコーロケーション反響定位)と言うクリック音の性能は高く、波形の違いから物質の成分や内容物まで認識が可能だ。群れは、母親を中心とした血の繋がった家族で構成されている。それぞれの群れは、その家族独自の『方言』とも言われるコールを持ち、家族内で情報交換をする。その『方言』は、親から子へと代々受け継がれていくことが分かっている」

 この圧倒されるまでのシャチの生態に、聴講生たちは教授の口元をじっと見つめて聞き入った。―――「さあ、ここからはディスカッションのコーナーとしよう。自由になんでも質問しなさい」

 大学生の数人が挙手をして続けざまに質問をおこない、同時に議論が繰り返された。 そのあとに続くように、僕は手を上げて質問をした。

「私は自然界の香り成分について色々と知りたいと思っております。そこで、香り成分が抽出できる海洋哺乳類には、どのような種があるのかお聞きします。たとえばシャチなどはどうでしょうか?」

「シャチから香水の原料を取ることはできるが、シャチの体臭が人間にとっては不快だから、香水の原料としては適さない。またイルカやアザラシなどはまったく採れない。 ただし、マッコウクジラは香水の原料として『アンバーグリス』というものが採れることが広く知られている」

「では、そのアンバーグリスについて、詳しく教えて頂けないでしょうか?」

「そうだな。龍涎香(りゅうぜんこう)ともいうアンバーグリスは、マッコウクジラの腸内に発生する結石だ。龍涎香が香料として使用されたのは7世紀のアラビアだといわれる。良い香りと色と形から、“龍のよだれが固まったもの”だと中国では考えられた。 日本には室町時代に伝来したと推測される」

「どのような香りがするのでしょう?」

「腸内で生成されたばかりの龍涎香(りゅうぜんこう)は、海の匂いや嫌な糞便臭がする。ところが熟成するにつれて甘い香りになるのだ。薬品のような渋みはなく、消毒用アルコールの香りに近いとも言われる。また、商業捕鯨が行われる以前は、マッコウクジラの死骸が海岸に流れ着いた時のみ流通した。よって非常に貴重な天然香料であった。今では鯨の解体時に入手することができるから、多少高価ではあるが商業的に供給がなされている。今後、商業捕鯨が禁止される可能性もあり、再び偶然によってでしか入手できなくなることも考えられる。そうなると希少性が増して、一頭から得られるわずかなアンバーグリスが、数千万円から数億円という高額で取引されることになるだろう」

 僕は教授の話を聞いて目の前が暗くなった。こんなに高価なアンバーグリスを試すなんてできるはずがない。ではいったいどんな方法があるのだろう?そう考えていると、90分の講義は終了してしまった。

 12時になると教室から廊下に出ることになった。越川教授は 「今日は我が大学の見学に来てくれてありがとう。講義は退屈ではなかったかね?さあ、お腹も空いたことだし、学食でランチでも食べよう!」と誘ってくれた。

 教授を目の前にして緊張はしたが、食事を進めながら談笑を重ねた。早志くんは「摩耶ぁ、お前はいつも変なことばかりに興味を持つ奴だな。香りにこだわるなんてお前らしいよ」と笑う。梅野くんが続けた。「そうだけど、摩耶くんが何かにこだわると、それが気になるな。その先には、僕たちがわくわくすることが待っているような気がするんだ」

「越川教授はアンバーグリスをお持ちでないのですか?」と愛原さんは質問した。

 教授は口にしていたごはんを喉に落とすと、考え込むようにしばらく間を置いた。「実は“大洋漁業”の知人が、研究用にと届けてくれたものがあるんだ」と打ち明けてくれた。

これを聞いた彼女は、衝撃的とも思えるお願いをした。

「私たちは複数の成分を調合して、新しい香りを作る研究をしています。アンバーグリスは、求めていた原料だと思いました。欲しいのは0.5グラムなのです。失礼を承知で申し上げますが、そのわずかな量を分けて頂けないでしょうか?」

 越川翔子さんは、この2人のやりとりを心配そうな面持ちで見守った。

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星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第39話 動物由来

               1974年12月9日 月曜

 今週はとても忙しかった。週明けの月曜には、愛原さんがボトルにオイルを詰めて教室まで持ってきてくれた。彼女は 「オイルを買い求めてきた老人は、1本あたり5mlと指定していたから、まずはこのくらいの量で問題ないと思うわ」 そう言って、手提げ袋を渡してくれた。中には、4種のオイルが1セット、等分配合されたボトルが、予備を含めて2本。そして、使い捨てのスポイトを4本用意してくれた。僕は授業が終わると、直ぐに帰宅して部屋にこもった。スポイトを使って極微量のオイルを配合済ボトルへ加えるという、デリケートな作業を続ける。もちろん加えた種類の量は正確に記録しなければならない。

 少年の母親がドアをノックした。「夕食も食べずに部屋で何をしてるの?」と聞くから、「理科の実験レポートを今週中に完成させないといけないんだ。だから忙しくてね」と説明した。彼女は「大変ね。じゃあ、食卓の上に食事を置いておくから、一息ついたときに食べなさい」と言ってくれた。試験準備だとか勉強だと言えば、親切な対応をしてくれるから楽だ。ただし、嘘がバレると大きなペナルティが課されるから、十分に注意しなければならない。

 調整作業を始めて、既に3日目に入っていた。正確なレシピは無く、記憶だけを頼りに調整するのだから、正解というゴールがはっきり見えない。それでも、限りなく近いと思えるボトルが目の前に完成した。ところが、時間を置いて何度か香りを確かめていると、何かが足りないという気がする。手放しに確信が持てないというのはもどかしい。僕はどうにも腑に落ちないまま眠りについた。

 津々木捜査官の母親役である和子さんが言っていた。捜査官は、小津の配下で暗躍していた構成員17名を、沖縄で現行犯逮捕したのちに取り調べをした。そして転送装置を使って、彼らの身柄を2060年の警察庁拘置所へ送り込むと、捜査官自身も元の世界へと戻って行った。その後は、審査や起訴、そして裁判などの手続きがあって、多忙な毎日を過ごしているらしい。

 今週の木曜日、久し振りに捜査官がこちらの世界に戻って来た。病気という理由で3ヵ月も長期欠席をしていたのだから、3組のクラスメートたち皆が心配していた。

 「どうなの?大丈夫?まだ顔色が悪そうにも見えるよ」と、多くの生徒たちが気遣った。

 僕は昼休み時間に彼に会うと 「やあ、久しぶりだね。それにしても、元の世界では毎日激務が続いていたんだね。かなり痩せているし、顔色も悪いよ。登校しても大丈夫なの?」

「ああ、問題なしだよ。妻や子供の顔を見ることができたし、大好きな“いぶりがっこ”もたくさん食べて元気が出たからね。見た目が病人だって?それはそうだよ、顔色の悪い痩せたアバターを作ったからな。メタモルフォーゼ処理の際、波動測定の肥満数値が、体型に反映されないよう、こっそり処理したから完璧だ。心配無用だよ、2週間もすれば元気な体に見えるようになるはずだ」

「なんだ、こんなに心配して損をしたよ。ところでね、相談したいことがあって、捜査官が戻ってくるのを待ちわびていたんだ。津々木捜査官や真鳥取締官から匂ってくる、ラベンダーに似た香りの事について教えて欲しくて・・・」

「それはタイムリープを制御する物質のことだな? 時空間移動を行うのに不可欠なものだ。以前話したことがあったと思うが、タイムリープに関する事は全て極秘事項なんだよ。それに教えてあげたくても、私は扱い方を知るだけなのだ。その構造を体系的に説明できるまで教育を受けていない。それだけ秘密にしておくべき事柄ということだ」

「ふ~ん。そう言うけど、ではどうして犯罪者がそれを詳しく知っているの?だったら、小津に教えてもらおうかな」

「じぇじぇじぇ!! 何を馬鹿なことを言っているんだ!君は知ってか知らずか、小津は制御物質の開発者だ。しかも研究所を辞めた後は、国際シンジケートに雇われて悪の道に染まった。奴はタイムリープを自在に操るから、組織に重宝されて上級幹部までに上り詰めた。その小津が君に秘密を教える訳がないだろう」

「やはりそうだったんだ!実は僕はね、小津と同じ会社の研究所に勤めていたんだよ。 そしておそらく、彼に無理やり治験者にさせられた。だから70年前のこの時代に飛ばされたんだよ。僕は知らないうちに騙されて、人体実験の被験者になったんだ!」

「驚いたな、そうだったのか? それで、君は制御物質を知ってどうしようというんだ。 まさか自分でタイムリープをしようと考えているのか?」

「そのまさかを何としても実現させるんだ!僕は2043年の世界に必ず戻ると決めたんだ。だから協力してよ!記憶を頼りに制御物質を試作したから、この香りを確かめてよ。そして使えるかどうか感想を聞かせて欲しい!」

 僕はおもむろに、調合したボトルをカバンから取り出した。彼は手で優しくあおぎながら香りを嗅いだ。これを何度か繰り返して感想を語ってくれた。

「そうだな。制御物質に近い匂いではある。しかし何かが足りていないように思えるな。私は長年この匂いを身にまとっているから、僅かな違いでも分かるんだ。ただし、足りないものが何であるかは残念ながら分からない」

「そうなんだね。僕も同じように感じていたんだ。でも何が足りないのだろう? もう一つ香りを加えれば完成するのかな?その時がきたら“扱い方”を必ず教えてよ」

「よし分かった!私にできることは全て協力するよ。それでまずは、何をすればいいかな?」

「僕は今から早退しようと思う。そして津々木捜査官の家に行くから、和子さんにそう伝えておいて欲しい。それから、真鳥取締官の意見も聞きたいから、真鳥さんに連絡を入れておいてもらいたい。捜査官の家から、空間移動装置で水上警察署まで転送させてもらうよ」

「了解だ!しかし君もかなりせっかちだね。いまから電話を入れておくから・・・」

「じゃあ、そういうことでお願いします。昼休み時間もそろそろ終わりだからね」

「じぇじぇじぇ!! トイレ行く暇もねぇじゃねぇか!」

 職員室に行って、担任に早退を申し出ると学校を後にした。捜査官の家に到着すると、和子さんが玄関から出てきた。僕は真鳥さんが待つ、水上警察署まで転送してもらった。

 真鳥さんも香りを確かめると、「似ているが何かが違っているな。植物由来の4種混合と言ったね?こういう時は、わずかな違いを解決しようとして、同系統のものを加えても駄目なんだよ。別由来の原料を探しなさい。そうすればきっと上手くいく・・・ところで、今日の夜は空いているかい?豊前田にあるディスコに踊りに行かないか?綺麗な女の子を紹介するよ。ジョージ・マックレーの流行歌『ロック・ユア・ベイビー』※注21で踊れば、気分は最高だよ」

 僕は 「もう一つの原料を探し当てたら、その時は連れて行ってください」と、丁重にお断りをして、水上警察署を後にした。警察署の駐車場まで来ると、携帯通信機を使って和子さんに連絡を入れた。「申し訳ないのですが、ここから市立図書館まで転送してもらえませんか?所用が済めばあとはバスで帰宅しますので・・・」

 こうして図書館に到着すると、香水などに使われる成分を持つ有機化合物を、考えられるだけ調べた。すると、実に驚くべき種類の成分が存在することが見えてきた。それは同時に、これだけ多くの中から探し出すことが出来るのだろうか?という不安を大きくした。

 例えば、昆虫の持つフェロモンは香水の原料として使われる。また、多くの果実が香料として利用されている。リンゴの香り成分はエステル、バナナの香り成分がアルデヒドなどの有機化合物なのだそうだ。動物でも香水に使用できる成分がある。動物の生殖腺分泌液から採取される香りや、ムスクなどがある。

 帰路についたバスの中で、調べたことを漠然と思い返していた。そうしているとなぜだか、残りの一種は動物由来に違いない!という根拠のない確信が頭をもたげた。

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※注21「ロック・ユア・ベイビー」(Rock Your Baby)は、ジョージ・マックレーが1974年5月に発表した曲。世界中で大ヒットした楽曲は1100万枚を売り上げた。ディスコミュージックの代表作のひとつ。


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星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第38話 植物由来

               1974年12月7日 土曜

 2時間目の授業が始まっている。理科教師の林多先生は、か細い声で話す物静かなタイプだから、注意しておかないと大事なところを聞き逃してしまう。先生は生真面目に淡々と授業を進めてくれるけれど、どうも頭に入らない。 

 相川さんから届いた手紙を読んだあとの僕は、明け方まで一睡もしていない。なぜなら、予想だにしない事実を知ったことで、睡魔がどこかに逃げてしまったからだった。

 翌朝、登校はしたけれど、動揺はいまだに収まっていなかった。相川さんの報告が頭の中で渦巻いて、授業は上の空でしかなかった。僕の“意識”は、手紙の内容に考えをめぐらすのに精一杯だったから、今日の授業は“無意識”に任せておくことにした。

 小津真琴があの会社“キュビットシステム”で働いていたなんて・・・・・・全くもって想定外だった。元の世界での様々な記憶が浮かんでくる。そうするうちに、これまで分からなかった事柄が、ひとつずつ符合していった。

 相川さんは手紙にこのように記していた。

『小津真琴は2015年9月11日生まれ。大学院を卒業して“キュビットシステム”に2040年4月に入社。配属先は、生物工学研究所だと言っていたわ。そうすると、あなたが2019年4月22日生まれだから、彼はあなたより4歳年上になる。そして、あなたが2042年4月入社だから、彼は会社では2年先輩になるわね』

『彼は私を連れ立って、2060年の未来から私が小学5年生だった時代、つまり1971年にタイムリープした。私は私の11歳の身体に跳躍したけど、彼は小津真琴という11歳の少年の身体に“意識スライド”した。当然のことだけど、小津真琴という名は“意識スライド”によって入り込んだ少年の名だから、彼の本名は小津真琴ではない。会社で思い当るような人はいる? いずれにしても、彼があなたのタイムリープに関与したとみるべきだわ。そして、小津が超高速通信技術について、うんちくを語っていたのも気になる。 もしかすると、通信遮断の原因は小津にあるのかも知れない』

 僕は“キュビットシステム”の研究開発部門で勤務していた。研究開発エリアには、複数の研究棟がある。生物工学研究所は、僕が所属していた量子力学研究所と同じ建物内にあった。だとすると、小津真琴に意識スライドする人物と、何度も出会っていたことになる。でも、小津とは外見も違えば名前も違うのだから、思い出すのはそう簡単ではない。

 僕は初めてタイムリープをした夜の事を思い返してみた。

『ほのかに漂う匂いは何処かで嗅いだことのある香りだった。ゆっくりと鼻をかすめていくと、深い闇の中に沈んでいた感覚と意識が刺激された・・・・・・僕は覚醒した。そしてゆっくりとベッドから起き上がった』その時に漂っていた香りには記憶があった。その後、小津真琴に初めて出会った時にも同じ匂いがした。それはラベンダーの香りのようだった。

 そうか、生物工学分野で働いていたのか。生物工学には、細胞工学、分子生物学、環境生物工学などの専門分野がある。中でも分子生物学は、植物や微生物の細胞の機能を解明して、新たな医薬品など高機能化学品の開発を行う。その人物は研究所で、時間跳躍を可能にする薬品を開発していたのではないだろうか?

 僕がいたセクションには、最新の量子コンピュータがある。様々な解析の依頼が、毎日のように多くの部署から舞い込んでくる。コンピュータ解析は、シミュレーションや最適化に大きな力を発揮する。薬品を開発する為に、その人物は僕のいたセクションに出入りしていたはずだ。そして植物由来の原料から、タイムリープへと誘う薬剤を完成させたのだろう。

 脳内にある記憶を呼び起こしたら、何度も記憶をトレースする。すると、ぼんやりではあるが、生物工学研究所に勤務する人物の輪郭が浮かび上がってくる。

 薬剤として承認を得るためには、一般的にはヒトを対象とした治験で、安全性や有効性を確認しなければならない。そして国の審査を経て、はじめて薬品として販売が可能になる。基礎研究から完成までには10年から15年の歳月が必要だし、そもそもタイムリープの治験など危険が大きすぎて、参加する者がいるとは思えない。参加者がいなければ、薬剤作りは頓挫してしまうだろう。

・・・・・・開発者は跳躍が失敗した時の怖さを誰よりも知っているはずだから、自らが被験者になろうとは思わないだろう。彼らには、何らかの理由で焦りがあったのかも知れない・・・・・・そうして、身近の人間を勝手に被験者にしようと考えたのかも知れない。

 以前、授業中に何となく次のように思いを巡らしたことがあった。『僕は用済みの男なのかもしれない。“意識スライド”を伴ったタイムリープでこの世界に突然跳ばされた。元の世界の誰かによって放り出されたのではないだろうか?』 

 推測してみよう・・・彼らは研究棟のどこかで、香りを発する薬剤を僕の身体に付着させた。そして2043年6月29日未明に、その治験は実行された。僕の意識は、時空を超えて70年前の少年の身体に意識スライドしてしまった。

治験はどのようなプロセスで実施されたのか?

その後、完成した薬剤は世に出たのか?

僕のチップとサーバーとの通信を遮断する理由とは、いったい何か?

 不可解であり、はっきりしない点はまだ幾つも残っている。それでもひとつひとつが明らかになれば、いずれ謎は解き明かされるだろう。

 相変わらず、か細い声で林多先生は授業を進めている。先生は、化学実験のプロセスを黒板に描いていた。物質と物質を分ける分離操作、“ろ過”の図表を書き終えたところで、2時間目の授業は終わった。

 4時間目が終了すると、今日は土曜日だから下校することになる。実は先月の事になるけれど、僕はバレーボール部を退部した。退部を申し出るために、職員室に監督を訪ねて行くと、『そうですか』と、簡単に済ませてはくれなかった。

 なぜ退部するのか理由を説明しろと言われたので、「受験勉強が忙しくなったので辞めたいと思います」と、ありきたりな返事をした。「10月の新人戦でレギュラーになれなかったからだろう? 芽が出ないことがそんなに悔しいのか? おまえの努力が足りないだけだ!」と言われた。ここで、『そうです』と言っておけば無難に終わったかも知れない。

 でも僕は、「放課後をもっと自由に、有効に過ごしたいからです」と、余計なことを口にしたものだから、監督は激怒した。「なんだと?おまえは腐ったリンゴだ。部員達に悪影響を及ぼす前に、すぐさま辞めろ!」後味は悪いものの、こうしてなんとか職員室から解放された。澤田京一くんや早志将義くんは心配して「残念だな」と言ってくれた。でも退部したことで、元の世界に帰る為の、様々な取り組みに使う時間が増えたことになる。

 今は、部活から解放されている12月7日土曜の放課後。下足に履き替えようと、下駄箱の前に立った時、西校舎から愛原京子さんが出てくるのが見えた。彼女は僕に気がつくとこちらに歩いてきた。

「昨日は対象をもっと拡げて調べると、私は言ったでしょ? でもね、あれから色々と考えてみたのよ。ラベンダーに似た香りを探すのは、様々な草花を調べることだけじゃない。複数の香りを調合して、求める香りを作り出すという方法だってあるのよ。これどう思う?」

「なるほど気が付かなかったけど、それもそうだよね」

「私の家は多くの草花を植えているでしょ?そして多くのアロマオイルを置いている。 以前、母親が話していたのを思い出したわ。ある日、見知らぬ老人がアロマオイルを売って欲しいと訪ねてきた。その老人は、ラベンダー、ローズマリー、白檀(ビャクダン)、ゼラニウム、4種のオイルを手に入れると、お金を置いて去っていった」

「その話はなんだか気になるね」

「そう!そうなのよ。その4種のオイルをこれから準備してみるわ。摩耶くんはこれを調整しながら、求める香りを作ってみたらどうだろう?」

「わかった。じゃ、愛原さんには面倒を掛けるけど準備をお願いします」

「小説『時をかける少女』だと、ラベンダーから有効成分を抽出して、水溶液に混ぜていると薬剤が完成していたわね。でも現実はそう簡単にいかないということよ。さあ、もう少し頑張りましょう」

 彼女には、香りを探す目的や僕の事情など、何も説明していない。なのに、全てを知っているように思えて仕方がない。もしかすると、彼女もタイムリーパーなのだろうか?

 アロマオイルを売って欲しいと愛原さん宅に訪ねてきた老人は、おそらく小津真琴だろう。彼は在庫不足などの理由で、必要となった4種のオイルを探し求めた。メタモルフォーゼ処理によって、老人の姿になった小津が訪問したのに違いないと思った。

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星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第37話 犯人の匂い

               1974年12月6日 金曜

 正門への坂道を上がる生徒達の中には、厚手のビニール袋を手にして、登校する姿が見える。道のあちこちで、レコードを聴いた感想を熱く語る光景は、今ではごく自然な風景になっている。次々と発売される新譜のレコード盤は、思春期の多感な少年少女たちに、刺激を与えてやまない。この頃、特に話題を集めるのは、サディスティック・ミカ・バンドのアルバム、『黒船』だった。シングルカットされた 『タイムマシンにお願い』 ※注20が大人気で、教室はミカ・バンドの話題で持ちきりだ。

 先月のこと、僕は初めてと言ってもよい時間旅行を経験した。赤江瀑先生は、タイムマシンに僕を乗せると、行先を告げることなく出発した。ほんの数秒、船内が暗くなったかと思うと、やがて視界が開けてきた。眼下には、広大なジャングルが地平線の果てまで続いている。

「摩耶くん此処はどうだね? 人類が地球上に現れた700万年前の世界だよ。人類と言っても、直立二足歩行をする猿人で、人類の祖先とされる霊長類の一種ではあるがね。気温が高く、雨が多いから、植物が大きく育っているのが分かるだろう? しかし、この時代には恐竜は生息していないよ。何故なら、既に6600万年前に絶滅しているからね。ここの猿人たちは、素朴な生活を日々繰り返しているだけなのだ―――では次に、我々に近い祖先が現れた、20万年前に行ってみよう」

 このタイムマシンは、UFO(未確認飛行物体)にそっくりだった。とはいっても、よく見聞きする円盤型やアダムスキー型、ピラミッドや葉巻型などではない。マシン全体を、外側から映し出しているモニターを確認すると、船体は三角形状になっていて、先端の3箇所から光を発している。素材は分からないけれど、クリスタルのような独特な輝きを発している。

「さあ、20万年前に到着したようだ。現代人であるホモ・サピエンスは、石器や火を使い、狩猟や採集を始めている。そして、農耕するまでに発展すると文明が芽生えるのだ。できるならマシンを着陸させて、じかに外の空気に触れてみると、よりこの時代を理解することができるのだがね・・・しかしこれには危険が伴うし、時間旅行規則では推奨されていないから、止めておこう」

 モニター画面を通して地表の様子を見ていると、人間の姿をした集団が洞窟から次々と出てきて、空に浮く僕たちのマシンを不安そうに見上げている。彼らの表情からは、空中で静止する物体に、恐怖感を覚えているのが分かる。泣き叫ぶ者、地面にひれ伏す者、マシンの姿を木の枝を使って地面に書き写す者もいた。

「摩耶くん、彼らはこのタイムマシンに、恐怖心と共に畏敬の念を表している。そのうち、洞窟の壁にタイムマシンの絵を描くかも知れないよ。そのようなものが後世になって発見される例は枚挙にいとまがない。それを宇宙人が地球にやってきた証拠だと言う者がいる。しかし、私にはそうは思えないのだよ。我々のような、タイムマシンで飛来した出来事を描いていると考える。さあ、目撃すべきシーンをひとつお見せしよう」

 前方のディスプレイには、“1912年4月14日23時40分”と表示されていた。暗闇の中に、船内照明で光り輝いている大型客船が傾いていた。漆黒の海に向かって、ゆっくりと沈み始めている場面が、大型モニターに映し出されていた。「君も知っているとは思うが、氷山に衝突した『タイタニック号』(※注36)というのがこの船だよ。さあ、我々の周囲を見てみたまえ。おびただしい数の、多種多様な飛行物体が空に浮かんでいるだろう?」

 この目を背けたくなるような惨状に、抑える涙が止まらないまま、僕は先生に向かって言った。 

「言葉が出てきません。犠牲になる人々を目の前にして、なす術のない無力感。救える命があったのではという喪失感が、今の僕を絶望の淵に突き落としています」

「気持ちは十分に察するよ。では、同様の事例をもうひとつ見に行こう。“2001年9月11日8時46分”に、『アメリ同時多発テロ』(※注37)が発生している。テロリストにハイジャックされたアメリカン航空11便が、ワールドトレードセンターへ突入する瞬間だ」―――

―――「ここでも飛行物体が複数集まっているだろう? それらは、歴史的瞬間を見届けるのが目的だと思われる。このように、歴史上重要な時点ではUFOの目撃がしばしば報告される。しかし、私はそれが宇宙船ではないと考える。未来人だからこそ、過去の重要ポイントを正確に選択して、現場へ飛来することができるのだ。宇宙人にとっては、それは難しくて面倒なことだろう。宇宙人がいたとしても、そもそもそのような目的の為に、地球を訪れはしないだろう?」

 僕は、タイタニック号やワールドトレードセンターの惨状を、尚も引きずりながら、赤江瀑先生に問いかけた。

「では、タイムマシンに乗る人の、歴史的瞬間を見届ける動機とは何なのでしょう? まさか興味本位の物見遊山(ものみゆさん)ではないですよね? 歴史検証や研究目的であれば理解もできますが、単なる観光であったり、娯楽だとすれば許すことができません!」

「そうだね。中には興味本位のトラベラーもいるかも知れないな。そのあたりは、時間旅行規則でもレクチャーされていることだ。だからモラルの問題だと言えよう。ついでに言うと、時間旅行規則では、その時代の人との接触を極力避けるようにとある。それは『親殺しのパラドックス』(※注38)に代表される、タイムパラドックスを回避しなければならないという意味なのだ」―――

―――「そして摩耶くん、きみは多くの犠牲者を目にして、無力感や喪失感を覚えたと言ったね? そうなんだよ、それが歴史を改変してはならないという本質に繋がるのだ。旅行者が歴史を変えるような行為を行っても、歴史は変わらないと先に説明した。改変行為が発生した時点で、世界は分岐をする。改変が反映されたパラレルワールド(並行世界)が新たに1つ生まれる訳だ。元の世界は何ら変わらないが、歴史を変えようとした者は、パラレルワールドに閉じ込められて、二度と元の世界に戻ることはできない。ところが、それを分かっていても、目の前で悲惨なことが起きていれば、無理を承知で抗(あらが)おうとする者が出てくるのも現実なのだ」

 ようやく僕は、荒かった呼吸も普段の状態に戻りつつあり、冷静さを取り戻すことができたようだった。

「先生のお蔭で、ようやく時間旅行規則を理解することができました。本当に感謝します」

「そうかい? よし!それでは1回目の実習は完了だね。そろそろ帰還するとしよう」

「2回目の実習はいつでも構わないから、都合の良い時に来なさい」と、別れ際に先生は言ってくれた。冬休み前には、もう一度タイムマシンに乗せてもらおうと考えながら、家路を急いだ。

 ところで今日(12月6日)は、放課後に2年3組の愛原京子さんの家に行くことになっていた。香りの絞り込みについて、状況や意見を聞く為だった。

 相川詩織さんから転校する直前にアドバイスがあった。「ラベンダーから勉強を始めるなら、2年3組の愛原京子さんを訪ねるといいわよ。彼女の家はハーブを趣味としているから、有益なアドバイスを受けることが出来ると思うわ」・・・こうして、ハーブの中から特定の一種を探し出したいという思いを、愛原さんに伝えることになった。

 愛原さんは、僕の目的が何であるかを聞くこともなく協力してくれた。僕は匂いの記憶を何度もたどって、香りの特徴を出来る限り具体化して伝えていた。彼女の家では、ハーブからアロマオイル(※注39)を手作りしているから、専用の芳香器を使って香りを確かめる為に、多くのアロマボトルが並んでいる。彼女が、これではないかと選んだボトルを幾つか確認してみたが、どうも僕の記憶とは一致しなかった。

 日当たりの良い庭には、多くの鉢やプランターがあって、ハーブ以外にも数えきれないほどの草花が育てられている。愛原さんは試行錯誤を繰り返しながら、特定するための努力を続けてくれた。

「ハーブではない植物にも対象を拡げて、調べようと思っているのよ。だからもう少し時間をくれないかな?」

 僕は彼女の申し出に恐縮した。そして、「申し訳ないけど、よろしくお願いします」 と言って、彼女の家を後にした。

『仮に特定出来たとして、それが決定的な解決手段になるとは限らない。ただ、一歩づつ着実に前進しなければ、元の世界に帰還する道は開かない』

 そう自分に言い聞かせながら家に着くと、名古屋から郵便が届いていた。それは相川さんからの手紙だったが、そこには衝撃的なことが書かれていた。

 手紙によると、小津真琴は名古屋まで空間移動装置を使って時々現れる。そこで彼女は匂いの正体を聞き出す為に、粘り強く探ってくれていたようだ。そして手紙には、小津が以前勤務していた会社名が記されていた。

“株式会社キュビットシステム”―――そこは、僕が2043年に勤務していた会社だった!

★――――――――――――――――★

※注20 『タイムマシンにお願い』は1974年10月5日リリースされた。アルバム『黒船』の先行シングルで、サディスティック・ミカ・バンドの代表曲。当時のバンドメンバーは、加藤和彦(ギター、ボーカル)、加藤ミカ(ボーカル)、高橋幸宏(ドラムス)、高中正義リードギター)、小原礼(ベース)。

(※注36)『タイタニック号』は、処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没した。犠牲者は乗員乗客合わせて1513人。生還者は710人だった。

(※注37)『アメリ同時多発テロ』とは、2001年9月11日(火)の朝、イスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われた4つのテロ攻撃。一連の攻撃で、日本人24人を含む2977人が死亡、25000人以上が負傷した。

(※注38) 『親殺しのパラドックス』とは、タイムマシンで過去の世界に行き、自分の父親となる人物を、母親と出会う前に殺したらどうなるかというもの。父親を殺すと、自分は生まれないため、タイムトラベルをすることができない。しかし、自分が存在しなければ父親は殺されず、自分が生まれてタイムトラベルをすれば父親殺しをすることになり、論理的に矛盾するという説。

(※注39)アロマオイルは、植物に由来する天然香料・精油や合成香料を植物油などで希釈した製品のこと。


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第36話 再会

               1974年11月10日 日曜

 気が付けば、車窓から見る道沿いの街路樹が色づきを見せていた。そして山の色彩も秋色に染まる準備を始めているようだ。これから秋が徐々に深まりを見せると、青空と紅葉のコントラストは、美しい風景画にとって大切な要素となる。

 僕は赤江瀑(あかえばく)先生に再び会うために、唐戸桟橋前の停留所までバスに揺られていた。停留所で降りると、バスを乗り換えるまで桟橋の先を眺めた。海峡を挟んだ対岸の門司港と和布刈(めかり)神社が、澄んだ冷ややかな空気を通して鮮明な姿を見せていた。思い起こせば、先生に初めてお目に掛かったのは、薫風(くんぷう)香る萌え立つ若葉の頃だった。それが今では秋の匂いに包まれて、どこか寂しさを感じてしまう季節へと移っていた。

 櫛崎(くしざき)城跡の上にそびえるクジラ館が目に入ると、県立高校前でバスを降りる。そして横断歩道を渡って、豊功(とよこう)神社の手前まで歩く。高校のグラウンドでは、野球部員が監督から厳しいノック指導を受けていた。そこから右に曲がって坂道を上がれば、赤色屋根の家が見えてくる。前回とは違って、今日は事前に電話でアポを取っていた。玄関前の庭を、腕組みをしてゆっくりとした歩調で歩いている先生の姿があった。

「おはようございます。先生、お久しぶりです」

「やあ、摩耶くんこと鹿間くん。元気にしていたかい?今日は良い天気だな。このような日は、屋外に出て君と散策しながら語り合うのが一番だろう。まずは崖下の海岸まで降りてみよう」

 そうは言っても、切り立った断崖絶壁の下には直接降りることはできない。豊功神社の手前まで戻り、茂みに覆われたトンネルのような道を真っ直ぐに進むと、目の前が開けてきて、静かな海岸線にたどりついた。櫛崎城跡の方向に歩いて行けば、崖の上に先生のご自宅が見えて来る。

「鹿間くん、君は何か事情を抱えた“時の旅人”ってところだな? かくいう私も、時間旅行を経験している人間ではある。そうであるから、知見を共有した上で、君が望む解決策を導き出すことも可能だろうと思っているよ」

 僕はある日突然、予期しないタイムリープによって、70年前の1973年へ跳躍していた。そして意識スライドと思われる現象によって、少年の意識を押しのけて僕の意識が入り込んだ。それ以来、他人になりすました生活を余儀なくされ、すでに1年余りが経過している。しかし、僕は元の世界に帰りたいと願ってやまない。だからその方法を知りたいと、日々模索していることを先生に以前打ち明けていた。

 波打ち際の岩にあたる波音は、静かに何度も繰り返されるが、たまに大きな音を出して、しぶきを上げる波もある。

 崖から生えている松の木を見上げる場所には、誰が設置したのだろうか、ベンチが据えられていた。そのベンチに2人で座ると、やさしい海風が松の木特有の香りを運んでくれた。暫くすると先生は、海峡の鼓動を直に感じながら、静かに僕に語りかけた。

「元の世界に戻りたいと言うのだね? 君も気が付いているだろうが、この世界には時間旅行者が数多く存在している。彼らの中には、未来や過去へタイムリープを繰り返す者がある。更に、いつ終わるとも知れない、人生の繰り返しを強いられている者たちには、タイムループを運命だと悟り、永遠の命を授かったのだと前向きに考える者もいる」

『長谷寛人くんもタイムループを繰り返すひとりだ。彼は、それを自然のことだと受け入れたことで、ストレスを抱えることなく生きている』

「時間とは、人間が作り出した幻想なのかも知れないよ。禅僧である道元は、『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)(※注35)の巻の一つである、『有時』(うじき)において、時間とは自己の存在を知ることであり、自己を知ることができるのは、自己が存在する現在だけであると述べている。現在という“今”は、過去、未来すべてを含んだ上で成り立つ“今”であり、それらは別々ではないという。すなわち“今”が全てであると―――過去や未来とは空虚な幻だと言っているように聞こえる」

 僕は先生が語る深い話に関心を示しつつ、現在の心情を伝えたくて話を切り返した。

「私は人間や世界の本質を問うような、哲学的考え方をまだ十分に理解出来ていません。現実に存在していた私の住む2043年は、現時点の延長線上にある未来だと信じています。此処という過去から繋がった先の未来は、間違いなく存在しているはずだと考えます」

「なるほど、遠くの地に離れたとしても、いつかはこの海峡の町に回帰すると私が願っていたように、君も元の世界への回帰願望が強いのだね。未来で見聞きしていたもの全てが君の世界であり、それこそが鹿間くん、本来あるべき君の舞台なのだ」

「ありがとうございます。それに、僕が元の世界に帰ることで、心と体を奪われた摩耶少年を回復させることができる。それも動機のひとつなのです。星霜には悠久の時が流れていますが、そこに、あまねく身をゆだねている訳にはいかないのです。少なくとも今の僕には、現実を受け止める覚悟はありません」

 静かに繰り返す波音が突然大きな音となって、辺り一面にしぶきが飛び散った。まるで場面転換をしろと要求しているかのようだった。先生はひとつ提案があると言って、会話を再開した。

「どうだろう、わたしと一緒に旅をしてみないか?私はね、タイムリープを経験していると言ったが、今ではタイムマシンを使って旅行をすることができるのだよ。遥か未来に行ってタイムマシンの扱い方を教わり、その装置を体内に埋め込んでもらったのだ」

「そうだったのですか。やはり装置という概念は時代により移り変わるものですね。それは体内埋め込み型デバイスが進化したものでしょう。体内に埋め込んだというのは、大脳皮質あたりに装着させた小さなチップではないでしょうか?しかもそれは宇宙船を動かすだけの推進力と、科学技術の粋を集めた高度なテクノロジーを装備している。それでいて、目の網膜ディスプレイに投影されるインターフェイスはとても扱いやすい。要求事項を念じるだけで、装置を自在に動かすことができるのではないですか?」

「驚いたな!全く君の推測通りだよ。実は西暦2300年の世界に跳躍したのだが、その時は君と同じように他人へ“意識スライド”をした。300年後の世界では、過去からやってくる人間が数多くいる。それだけに、あらゆる時間旅行者を検知すると、政府がエージェントを派遣するのだ。そして、旅行者に対して十分なケアを行う。時間旅行規則を教育した後に、元の世界に戻すという社会システムが機能している」

「それはすばらしいですね!未来は、時間旅行に関してそこまで進化しているのですね。時間旅行規則というのはたいへん興味深いです。どうしてそのような規則が生まれたのでしょうか?」

「それは、時間旅行者に歴史を変えさせないという考えだよ。実は旅行者が歴史を変えるような行為を行ったとしても歴史は変わらないのだが・・・なぜかというと、そのような行為が発生した時点で世界は分岐してしまう。いわゆるパラレルワールド(並行世界)が新たに1つ生まれるだけなのだ。歴史を変えようとした者は、分岐点から新たに生まれたパラレルワールドに迷い込むことになる。自分がいた元の世界は何も影響を受けない。どの時間軸で歴史を変えようとしても無駄でしかなく、歴史を変えようとした者は、元の世界に帰ることができなくなる。むやみにパラレルワールドを増やさず、元の世界に戻れなくなる者を、これ以上出さない為の規則なんだよ」

 先生は閉じていた瞼(まぶた)を開くと、海峡の彼方を指差した。

「準備はできた。鹿間くん、では出発することにしよう」 

 いったい、これから先生はどの時代に僕を連れて行ってくれるのだろう?どこに行くのか考えただけでもワクワク感が止まらなかった。

★――――――――――――――――★

(※注35)『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)とは、鎌倉時代初期の禅僧で日本曹洞宗の開祖である、道元が執筆した仏教思想書。生涯をかけて著した日本曹洞禅思想の神髄が説かれている。

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第35話 ホワイトビーチ

       1974年8月10日 土曜

 8月8日木曜の朝、沖縄に来て初めて海を眺めることができた。海岸線の道路をバイクに乗って疾走するのは気持ちが良い。地図と照らし合わせると、青い海の先には宮城島(みやぎじま)や浜比嘉島(はまひがじま)が見える。

 ホワイトビーチは、在日アメリカ海軍の港湾施設。コザの街からうるま市を経由して、勝連半島の先端にある、ホワイトビーチまでの所要時間は1時間程度になる。今日は、一斉検挙に備えた下見が目的だというのに、南国の景色に目を奪われてばかりいる。僕はすっかり旅行気分になっていた。

 今から9時間前のこと。真夜中の連絡に、津々木捜査官の反応は鈍かった。 なんだって? それはほんとうなのか? しかし超能力でもなければ、そんなことが事前に分かるはずもないがな・・・」

「だから何度も言ってるでしょ! アキラは間違いなく超能力者なんだよ。 僕はアキラの予知能力を信じたい。 どうするの? こうなったらアキラの予知能力に賭けてみようよ」

「・・・そうだな。時間も残っていないことだし、ここは一か八か掛けてみるか。よし分かった!明日は一斉検挙だ」

「Is tomorrow’s hunt held here?」

(あすの捕り物はこのあたりで行われるんだね?)

「I think it’s definitely right.」

(そうだな、間違いないと思っている)

 アキラが予言した一斉検挙の現場は、軍施設の出入り口ゲートを出たところから、上り坂を進んで左カーブの下り坂に転じる地点だった。西側の斜面一帯は森になっている。ここだと、ゲートで見張っている憲兵(MP)からは見えないから、絶好の受け渡し場所のように思えた。

 アキラはバイクから降りて、木々の茂る斜面に腰を下ろすとタバコに火をつけた。そして何かを思い出そうとするように、ゆっくりと語り始めた。

沖縄戦では、兵士だけではなく多くの民間人が犠牲になった。もちろんそうなったのは、アメリカ兵が上陸してきたからだ。私たちにとっては、どれだけ時が過ぎようと、それを忘れることはできない。一方で、沖縄からベトナムへ向かったアメリカ兵は4人に1人が亡くなったと聞いている』

 彼はタバコの火を側溝の縁にこすりつけて消すと、2本目に火をつけて話を続けた。

『これはベトナム戦争が始まった頃の話だが、嘉手納基地の居住区には、将校向けのハウスが幾つも立っていた。週末になると、ハウス前に広がる青い芝の上で、将校の家族がバーベキューを楽しむ光景があった。厚いステーキを焼く匂いが風に乗り、鉄条網の外で見ている私のところまで漂ってくるんだ。それは子供心にとても羨ましく思えたよ。アメリカとの経済格差を思い知らされる一場面だな。しかし、皮肉なことにその同じ基地からは、沖縄に来て訓練を終えたばかりの若い兵士が、毎日のように地獄の戦場に送り出される。このホワイトビーチの桟橋から、言葉なく輸送船に乗り込む兵士達を想像してみたまえ。彼らの心情はいかばかりのものか』

「そうだよね。生きて帰る確率は75%、しかも心身ともに傷つかずに戻ってくる兵士は更に少ない。僕だったら兵役は耐えられないだろうな。理不尽な話でしかないよ」

 彼は3本目のタバコに火をつけながら更に話を続けた。

『兵役の是非を論じるのは止めておこう。ところで兵士たちの中には、自らを鼓舞するために、ポータブルレコーダーに好きなロックミュージックを入れて、戦場に行く者がいる。精神的に追い詰められたり、恐怖を感じた時にプレイボタンを押すんだよ。 ローリング・ストーンズの“サティスファクション”や、ジミ・ヘンドリックスの“パープル・ヘイズ”などが人気だ。最前線では、正常な精神状態を保つのはそれほど至難の技なんだ』

『私の職業はマトリだけど、若い兵士たちが麻薬に手を出す気持ちを理解することができる』

「But drugs are bad, right?」

(でも麻薬は悪いことだよね?)

「I know it’s wrong, but when I think they’re not just playing around, my heart tightens.」

(悪いと分かっているが、彼らは遊びで手を出すのではないと思うと、心が締め付けられるんだ)

「Let’s stop talking about this.」

(もうこの話は止めておこう)

アキラは、もはや何本目なのか分からないタバコの火を消すとこう言った。

 「Shall we go eat tacos for a change of pace?」

(気分転換にタコスでも食べに行くかい?)

 コザ十字路まで戻って左折をするとサンサン通りに出る。そして直ぐに右折すると“チャーリータコス”が見えてくる。店の入り口には“メキシコ生まれの沖縄育ち”と書かれてある。店内に入ってツナとチキン、2ピースを注文した。

「うん、これもまたジューシーに負けず劣らず美味しいね・・・・・・ところでアキラはバイクの乗りこなしが上手だけど、いつの頃から乗っているの?」

『最初に買ったバイクは高校生の時だった。今のハーレーは、就職した時にそれまで乗っていたバイクを下取りに出して買い替えた。初めてのバイクはある意味、米兵に買ってもらったようなものだけどな』

「どういうこと?」

『子供の頃は、コザの歓楽街にはそこかしこに紙幣やコインが落ちていた。特に週末になると、多くの米兵が街に繰り出すからチャンスなんだ。翌日は、たくさんの子供たちが早起きしてお金を拾いに行ったもんだよ。雑居ビルの植え込みや、観葉植物の鉢の中、ゴミ箱などは真っ先に確かめるんだ』

「なぜそんなにお金が落ちているの?」

『彼らは、戦地に行けばいつ死ぬかわからないと考える。江戸っ子の“宵越しの金は持たない”と、似た感覚じゃないのかな。お金は残さないという美学。それともヤケになっているかのどちらかだ。だから湯水のようにお金を使ったあげくに、余ったお金は捨てるんだよ』

「なんだか悲しいね・・・」

『私はそのお蔭で、普通の子供が手にするお金をはるかに超える金額を手にしたんだ。これは考え方次第だが、今は恩を仇で返すような仕事をしていると思うと、気持ちのやり場がないんだ』

「そう・・・なんだね・・・・・・」

 翌朝はすぐにやって来た。決戦の日を迎えた朝に、アキラは僕のために朝食を作ってくれた。焼いたスパムに半熟のスクランブルエッグを添える。ケチャップをつけると、これがとても美味しい。

 津々木捜査官から、携帯通信機器に連絡が入って来た。最終打合せに僕は緊張した。

「奴らのうち13人は予定時刻までに森の中に入り、そこで息を殺して潜んでいる。現場向かいの空き地には、麻薬搬送用トラックを2台停めて、2人のドライバーが待機している。併せて逃走用のバイク2台が並ぶ。そして、アジトには指示役1人と留守番役の1人が残るという手はずと考える」

「そうなんだ。しかしあまりにリアルなフォーメーションだね。これは津々木さんの見立てなの?」

「うっ!・・・さすが鋭いな。確かに、きみの言う通りで私の考えではない。以前、真鳥捜査官が、構成員に特定した人物の信頼を得たと言っただろう? この計画は、真鳥くんがその女性から聞き出したことなんだ。しかも彼女は、今では真鳥くんと恋仲になっているという。嘘をつくこともないし裏切ることもないようだ。むしろ彼女は、早く真鳥くんに自分を逮捕して欲しいと願っているそうだ」

「まったく真鳥さんには、いつも驚かされるよ。彼は信じられないほどのモテ男だね」

「そうだな。そして彼は15時を目途に指示役を逮捕して、空間移動装置で私の家まで護送する。そこで指示役を睡眠装置に押し込むと、再びアジトに戻って検挙現場にバイクで向かう手はずだ。アキラの予言した17時50分には間に合うはずだから、我がチームは7名全員で戦うことができるよ」

 予定時刻の17時50分に、僕たちはアメリカ軍のゲートから、県道8号線へと繋がる三差路の空き地に、ゆっくりと静かに車両を停めた。森の中から次々に飛び出して、軍用車を強制的に停める構成員の姿がここから確認できた。待機させていた、2台の小型トラックを軍用車の前に横づけすると、慌ただしく荷下ろしを始めた。構成員の中には、ピストルを米兵に向けて威嚇している者もいる。彼らは受け渡しに集中しているから、背後から近づく我々に注意が向いていない。我が捜査官たちも拳銃を手にしているが、もし打ち合いになれば、僕たちは一体どうなってしまうのだろうか?

 構成員たちが搬送用トラックに荷を移し終えたのを見計らい、津々木捜査官は大声で号令を掛けた。同時に、彼らのピストルの銃口は僕たちに向けられた。ところが次の瞬間、信じられない光景を目の当たりにする。

 構成員たちのピストルが、手からゆっくりと離れると、宙に留まっている。米兵の機関銃もそうだった。ついでのように、津々木捜査官たちの拳銃も空に舞い上がる。これを見た誰もがパニックに陥った。僕は振り返ってアキラを見た。彼は無言のままにうなずいた。それは念力(サイコキネシス)のようだった。もはや、アキラが次々と繰り出す超能力に、僕は驚きを感じなくなっていた。

 そして逮捕劇が開始された。津々木捜査官と時空間野営部隊の3名は、逃げ回る構成員を次々と確保していく。手際よく手錠を掛けてトラックの荷台に乗せていく。僕は逃走用トラック2台の運転席から、素早く車のキーを抜くことに成功した。次にバイクのキーを抜こうとした時、「そこをどけ!」と押し倒されてしまった。2台のバイクがエンジン音を上げて走り去るのが見えた。

 アキラは、身分証明証を米兵に見せて事情説明をしていた。彼は、逃走するバイクのエンジン音を聞いて振り返ると、停めてあったハーレーに全力で駆け寄った。真鳥捜査官も急いでバイクにまたがると、フルスロットルで飛び出していく。2人のバイク音が、けたたましい唸り声を上げて彼方に消えて行った。

 津々木捜査官は満足げに言った。「荷台には13人を乗せた。逃走した2人と睡眠装置に眠る1人、そして真鳥くんの“彼女”を足せばこれで全員検挙だな・・・おっと真鳥くんから連絡だ!―――アキラの素晴らしいバイクテクニックで2人を確保したそうだ。早く彼の待つ場所まで車を回して欲しいと言っている。真鳥くんはこれから留守番役の彼女がいるアジトに向かうそうだ」

―――8月10日、沖縄と別れる日がやって来た。昨夜はチームメンバー7名、真鳥さんの彼女とで、反省会を催した。真鳥さん立っての希望は、コザの黒人街(※注34)にあるクラブで踊ることだった。真鳥さんは、彼女とダンスをしながら、最後の別れを惜しんだ。2人の姿を見ていると、ローリングストーンズの『悲しみのアンジー』 ※注19  という、それは甘く切ない曲が頭の中で流れ出していた。メンバーたちは、無事にミッションを成功させた喜びを胸に、楽しく騒いでいた。

「Come back to Okinawa when you feel like it.」

(気が向いたらまた沖縄に来なよ) 

 アキラは僕の肩に手を置くと、ウイスキー片手に静かに言った。

 10日土曜、16時になった。僕はアキラにお礼を告げると、空間移動装置で津々木家に戻った。装置を使う前に津々木捜査官が、「座標値は家の中ではなく、庭に設定しているからな」と言っていた。それは戻ってみると、言っていた意味が直ぐに分かった。

 3LDKの一戸建てに、構成員17人と津々木家の5人がひしめきあっていた。僕のアバターはまもなく消去されて、僕と真鳥さんはもうすぐ自宅に帰るけれど、それでもこの家は人員過剰になっている。母親役の和子さんは、津々木捜査官に訴えていた。「早く何とかして下さいよ!! 未来の警察庁拘置所に彼らを転送してもらえないですか?このままじゃ、寝るところもないわ」

「まあもう少し待ってくれ。全員の取り調べを終えたら、二、三日中にはなんとかするよ。今夜は庭にテントを張って、そこで寝ようかな・・・・・・」

★――――――――――――――――★

※注19 『悲しみのアンジー』(原題:Angie)は、ローリング・ストーンズが1973年に発表した楽曲。本国イギリスでは2週連続で5位。アメリカでは1位に達し、バンドにとって7作目の全米1位獲得シングルとなった。

(※注34)1960年代のアメリカでは、“白人”と“黒人”の間で人種をめぐる対立が続いていた。米兵の歓楽街として栄えたコザもその影響が色濃く表れていた。現在の胡屋十字路近くの一番街周辺が“白人街”、銀天街周辺が“黒人街”と呼ばれて夜の街でも棲み分けがあった。


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第34話 超能力

       1974年8月8日 木曜

 8月5日 月曜深夜 ―― コザ十字路から東南方向へ、バイクで5分ほど走るとアキラの家がある。到着した時は、すでに深夜2時を過ぎていた。クラブなど数件の店舗で張込を続けたけれど、目立った成果はなかった。アキラの部屋に入ってシャワーを浴びると、明日の行動を確認しながら、2人で寝酒を交わした。

 アキラはバーボンウイスキーを好んで飲む。彼の部屋には、テネシー州産のジャックダニエルが何本も置いてあった。明け方まで英語で会話を続けて、僕はそのうち眠りに落ちた。

―――背中や首筋に寝汗を感じて目を開くと、“バタバタバタ”という大きな騒音が上空を通り過ぎて行った。すでに起きていたアキラは、『あれはアメリ海兵隊のヘリコプター“CH-46シーナイト”だよ』 と教えてくれた。壁に掛かる時計に目をやると9時を回っている。急いで簡単な朝食を掻き込んで、玄関の様子を見に行った。そこには、僕のスーツケースが届いているはずだった。昨夜、アキラの家に到着した時、スーツケースを届けてもらう為に、母親役の和子さんに連絡を入れた。もちろん、転送に必要な正確な座標値を伝えておいた。

 着替えを済ませると、バイクの後ろに乗ってコザの中心街に向かった。これから、今夜の潜入捜査先の確認や、部隊の構成員を絞り込むための、路上聞き込みを地道に続けなければならない。小さなヒントも見落とさないように、収集するのが僕の役割だった。

 そうはいってもミッションのメインは潜入捜査だから、夜になれば犯罪者に成りすまして行動する。場合によっては現行犯逮捕もありうる。でも、僕は逮捕する権限がないので、その時はアキラが手錠をかけることになるだろう。捜査のメインは夜だし、日中はできるだけ資料整理などに時間を使って、体力を温存しておきたい。

 お昼は2人で沖縄そは店に入った。そばの他に、沖縄の炊き込みごはんで握ったジューシーを1つ注文した。僕はこの沖縄ならではの、ソウルフードが気に入った。毎日でも食べたいくらいだ。隣に座るアキラを見ると、お茶代わりにビールを飲んでいた。

 僕はアキラに出会った時から聞きたかったことを質問してみた。

「What specific superpowers does Akira have?」

(アキラの持つ超能力って具体的には何なの?)

「Yeah, it’s clairvoyance. It can be useful for work, but it’s not a great ability.」

(そうだな、透視能力だ。仕事に役に立つこともあるが、大した能力ではないよ)

 クリアボヤンス? いやいや、これはもの凄い能力じゃないか!顔を見るだけで、その人の過去の出来事や事件を想像したり、遠く離れている光景を知ることができる。千里眼を持つ彼は、マトリ(麻薬取締捜査官)として、大きな武器を持っていることに他ならない。

 8月7日水曜、早くも沖縄4日目の朝日が昇る。昨夜までに3名の構成員を特定することができた。ところが意に反して、現行犯逮捕するのは待つようにと指示が出た。

 津々木捜査官は慌てた様子で連絡をしてきた。『一斉に逮捕できなければこのミッションは失敗するかも知れない。構成員の特定状況を見て、然るべき時に号令を発するが、現時点の特定者は9名だ。まだ全体の半分強だから、逮捕はもう少し待つように・・・それからトピックを伝えよう。フィリーソウル(※注28)で踊るという、最近流行しはじめた“ディスコ” (※注29)で、真鳥捜査官がお手柄だよ。構成員だと特定した人物の信頼を得て、部隊のアジト(隠れ家)の潜入に成功している。君たちは今後の指示に従い、独断専行の行動は慎むように』 とのことだった。

 今夜はライブハウスを中心に捜査することにしている。中の町界隈から始めて、BCストリートにある“キャノン・クラブ“(※注30)まで、いくつかの店をのぞいてみた。これらの店では、ハードロックバンドの人気が高く、”コンディショングリーン“(※注31)や、“紫”(※注18)が、特に人気を集めていた。ライブハウスでは、刺激あるサウンドに酔った時、更に高揚感を高めてくれる、麻薬を求める者がいると聞く。

 僕たちは潜入捜査の合間に、ライブハウスの経営者からこんな話を聞いた・・・・・・今はかなり落ち着いているけれど、以前は若い米兵が街に溢れ返って、空前絶後の好景気だったという。彼らは“戦地手当”を手にすると、戦場に戻るまでのわずかな休息を楽しむ。酒、女、ロックに溺れ、そして熱狂する。ステージに立つ演者は、心がすさんだ米兵を前にして命懸けで演奏をした。演奏が下手だとブーイングが巻き起こり、灰皿や瓶などが、容赦なく投げつけられたという。

 アキラはすこし休憩しようと言って、ライブハウスを出ると小さなロックバーに向かった。

「The usual one cup」

 (いつものを1杯)と注文すると、ジャックダニエルのロックがアキラに差し出された。僕は清涼感が感じられるモヒートを楽しんだ。

 彼は、話しておきたいことがあると前置きして、アメリカ軍の戦況について話し始めた。彼の話を要約すると、

ベトナム戦争は、1968年には年間54万人のアメリカ軍兵士が派遣された。同時に嘉手納基地から北爆(※注32)に向かうB-52爆撃機で大きな戦果を挙げた。爆撃機が沖縄から飛んでくると知ったベトナムの人々は、沖縄のことを“悪魔の島” と呼んだという』

『パリ和平協定が調印された時には、派遣兵は2万4千人にまで縮小。今年の1月29日、ニクソン大統領は戦争の終結を宣言する。そして2か月後の3月29日には撤退が完了した。その時、軍港の桟橋には輸送船が次々と入港して、兵士達を沖縄に連れ帰った。彼らにとっては、行くも帰るもホワイトビーチ地区(※注33)ということだった。このようにして1973年以降、沖縄に駐留する兵士の数は徐々に減っていった。これを見てコザの街が落ち着きを取り戻したと言うのだろう』

 僕はこれまでの潜入捜査を思い返しながら言った。「この騒々しく混乱した光景で、落ち着きを取り戻したというの? 以前がどのようなものだったのか想像つかないよ」アキラは笑顔を見せて話を続けた。

『潜入捜査をして、一刻も早く17人を特定しなければならない。しかし、一度に逮捕しなければ意味がないのだろう? 中途半端に逮捕すれば、少なくとも半分は取り逃がすからね』

『17人は、麻薬の個別売買で日々稼いでいるのだろうが、沖縄に来た大きな目的は別にあるはずだよ。おそらくそれは、東南アジアのシンジケートにあらかじめ接触して、麻薬をここまで運ばせる。アメリカ軍を利用した運び方でね。空輸であれば嘉手納基地、船便であればホワイトビーチだろう。実をいうと、私には見えたんだよ。ホワイトビーチのB桟橋に接岸した軍用船から、荷下ろしされる大量の麻薬を・・・あの量が内地にばら撒かれたとしたら、日本中が麻薬で汚染されてしまうだろう』

「それは過去の出来事ではなくて、これから起きるということ? もしかすると、アキラは予知能力まで使うことができるの?」

『そうなのかも知れない。私には未来の出来事が見えることがある。昨日特定した男に接触した時、そいつの意識を通じて未来を見たんだ。その男が、軍施設のゲートを出たところにある森に潜んで、荷物の受け取りを待つ姿があった。もしかすると、17人全員が受け取り現場に集まるのかも知れないな』

「So that's definitely right, isn't it?」

(それは間違いないことだね?) 

「And when is that?」

(そしてそれはいつのことなんだろう?)

 アキラは深くうなずくと、

「It’s the evening of August 9th. Exactly 5:50 p.m.」

(8月9日の夕刻だよ。正確には17時50分だな)と、教えてくれた。

 僕は津々木捜査官に急いで連絡を入れた。アキラが予知した内容を伝えると、捜査方針は急展開を見せた。

★――――――――――――――――★

※注18『紫』は、バンド“ピーナッツ”が前身で、ドアーズやヴァニラ・ファッジなどの曲をカバーしていた。その後、日系3世の比嘉常治(ジョージ紫)が加入。彼はディープ・パープルに影響を受けており、1970年にバンド名を『紫』とした。

(※注28)フィリーソウルとは、フィラデルフィア・ソウルのこと。70年代前半に一世を風靡したフィラデルフィア発のソウルミュージック。ストリングスを使った柔らかく甘めのサウンドが特徴。それまでのソウル、R&Bを洗練された都会的サウンドに変えた。

(※注29)ディスコとは、音楽を流して飲料を提供し、客にダンスをさせるダンスホールのこと。

(※注30)キャノン・クラブとは、60~80年代にBCストリートにあった伝説的なライブハウス。数々のグループを世に送り出し、ロックの聖地としてその名を残した。

(※注31)コンディショングリーンの意味は、米軍用語で「5段階に区分された警戒レベルの下から2番目を指す通称。軍関係者の基地外への外出や繁華街への立ち入りが禁止される。日本復帰前の沖縄では治安や米軍に対する市民感情などが悪化した場合に発令された。沖縄のロックバンドであるコンディション・グリーンは、音楽雑誌の人気投票で上位に入るほど有名だった。メンバーがステージ上で鶏や蛇を殺すなどの過激なパフォーマンスを行い、ベトナム戦争に赴く米兵達を驚かせた。

(※注32)北爆とは、ベトナム戦争中に米国が北ベトナムに対して行った大規模な空中爆撃のこと。トンキン湾事件の報復という名目で1965年から開始された。

(※注33)ホワイト・ビーチ地区とは、うるま市に所在するアメリカ海軍の港湾施設勝連半島の先端にある。白砂が美しい海岸に2つの堤が突き出ており、先端にそれぞれ桟橋が設けられている。海軍桟橋と陸軍桟橋と呼ばれ、補給物資の揚陸、艦船への補給として使われる。また、原子力潜水艦の寄港地で、有事の際は、空母や強襲揚陸艦への海兵隊員の搭乗にも使用される。


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