tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第20話 買占め騒動

               1973年11月19日 月曜

 体調を崩して療養を続けていた野々村先生が久し振りに教室に姿を見せた。朝の会では前かがみの姿勢で教壇に両手をついた。話すその姿には病みあがりの疲労感が滲んでみえた。

「君たちもテレビや新聞報道を目にして知っていると思うが、『紙がなくなる』というデマが流行っている。不足するはずもないトイレットペーパーを買い占める騒ぎがあちこちで起きた。買占めの動きはテレビで取り上げられて瞬く間に全国に拡大したから、君たちの家庭でも困った問題になっていると思う。これは 『原油が高騰したから紙が無くなるかも知れない』 という集団心理が働いて起きたことだ。大量消費が当たり前になったこの時代だからこそ、物不足になれば大変だという恐怖が人々をパニックに陥れた」

「事の発端は中東の産油国原油価格を突然70%も引き上げたからだ。過去に例のない値上げは、私たちの生活に計り知れない影響を及ぼすだろう。政府は国民に紙を節約せよと呼びかけた。まあこれが結果的に仇となった訳だが、その後には政府が次々と対応策を打ち出した。それでもこれを機に時代は大きく変わることになりそうだ。君たちがイメージするのは難しいだろうが、私たち大人も先を予測するのは難しい。正直言うと私もどうしてよいのか分からないのだ」

「待ち受ける荒波を乗り越えるには、日々の行動を変えることしかない。つまりは当たり前だと考えていたことを疑ってみるのも一つの方法になる。すなわち視点を変えるということだ。そうすれば物の見え方が変わる。すると考えが変わってくる。考えが変われば行動が変わる。これが今の私たちに出来る唯一のことなんだろうな」

 先生の話には何か得体の知れない恐怖が伴っていた。生徒全員が同じ気持ちになっていたと思う。保護者や先生は子供を守るのが当たり前だと思っていたのに、『先生も分からないから、これからは自分で答えを見つけるように』と言っているように聞こえる。病み上がりの先生が荒い息遣いで息切れしながら話す姿は、僕たちの不安を増幅させて更に恐怖心を煽った。

 僕はこの石油危機については中学生の時に習って知っていた。1973年に第一次石油ショックが発生する。翌年には消費者物価指数が23%も上昇して 『狂乱物価』 と呼ばれる。次に1979年に第二次石油ショックが起こったけれど、日本はいずれもこの荒波を乗り越えることができた。

 今のところ紙不足や悪い影響といった実感は無い。それでも家に帰ると『家計を絞るからもっと倹約してもらうよ』『お小遣いを半分にしようか?』『おかずは1品減らすからね』 などと、少年の母親が小言を繰り出してくる。残念ながら僕にはただの脅しにしか聞こえなかった。そうは言っても来年には間違いなく物価が23%上昇するはずだ。今はまだ生活に変化を感じなくても、困ったことや不便なことがこれから起きるかも知れない。       

 3時間目は社会の時間。1学期は地理を学び、2学期からは歴史の授業に切り替わっている。今日は日本史で、鎌倉時代から室町時代にかけて教わる。相変わらず授業に集中できないでいる僕は、授業中に考え事をしたり独り言が出たりする。これまでも先生から注意を受けているから考え事はほどほどにしなくてはと思っている。でもこの社会科授業は温厚な山上先生なのだからつい気が緩んでしまう。

・・・・・・2週間前に相川さんから聞いた話の内容はとても驚かされた。相川さんによると、彼女が小津に無理やりタイムリープさせられて訪れた2060年は、数多くのタイムリーパーが存在していたという。彼らは時間跳躍するのに必要な知識と技術を学ぶと、過去や未来へと自在に飛び回っていた。そして必要に応じて元の世界に戻ってくる。僕が大学生だった2040年というのは、偶然にタイムリープした人はいても、タイムリーパーの存在は確認されていなかった。

 相川さんは話を続ける・・・2043年になるとタイムリーパーの研究が飛躍的に進んだ。それは僕の住んでいた時代で、無理やりタイムリープをさせられた、まさにその年だった。その頃は時間跳躍を解明するのは困難だと誰もが考えていた。ところがこれを明らかにして科学的根拠を示した会社が現れたという。こうして科学的に証明されたタイムリーパーの存在は、倫理観や技術の重大性から即座に国の管理下に置かれたという。

 無秩序にタイムリープが行われる世界を想像してみると確かに恐ろしい。誰もが自由にタイムリープをする世界は不安なことばかりだ。軽はずみな犯罪から歴史の改ざんまで、規制をかけない限り人類の安全は保障されない。

 不正に情報や技術を入手してタイムリーパーになったという小津という存在がある。 そしてまた、そのような人物を取り締まる津々木捜査官がいる。時代の要請に応じて時間犯罪警察局は設立されたのだろう。捜査官は政府のタイムリーパーだから、公認された正規のタイムリーパーなのだ。そして小津のような許可なく好き勝手に跳躍する者は、非公認のタイムリーパーだと言える。でも残念なことに、この非公認タイムリーパー達が後を絶たないという。危険を冒してでも悪に手を染めたがり、不当な利益を得ようとする者がいる。いつの世も悪は絶えないということなんだ。

『ところで気になっている事がある。相川さんが知っていれば教えて欲しい。僕はタイムリープした時に僕の意識だけが跳躍してしまったよね。そうなれば、意識が抜けた後の僕は、無意識がコントロールをするようになると思っている。それから僕は摩耶くんの意識を押し退けてしまった。でも摩耶くんの意識は今もどこかに存在していると考える。どうなのかな?』

『そう、その通りよ。意識が抜けても植物状態になったり死んだりはしない。あなたの身体は普段通りの生活をしているのよ。なぜなら人間というのは無意識が体をコントロールしていると言われているの。意識は0.3秒遅れて回りの世界を見ているのよ。ニューロン(注11)も無意識に対してのみ反応するから意識とは縁がないわ。意識は世界を観察しているだけであって、決して人間が生活するのに重要なものではないのよ。 そしてもう一つの質問だけど、宇宙の果ての地平面には1つのデータベースが存在しているらしい。そこには世界を作るあらゆる情報や自己意識が集まっているらしい。きっと摩耶くんの意識はそこに行っているのよ』

『なるほど、そうなんだ。量子理論の分野でも、量子もつれがテレポーテーションを引き起こしてブラックホールの地平面に記憶が保存されると考える。記憶と同様に意識もそこで作り出されているんだね。そして役割を終えたときには意識もそこに保存されるという訳なんだ。だとすれば、僕の意識が摩耶くんの体から出て行けば、彼の意識は戻ってくると考えてもおかしくないね』

『そうなると思う。だから摩耶くんは死んだわけではないから安心して・・・それから、香水のような香りの秘密を探っているけどまだはっきりしないの。ごめんなさいもう少し頑張ってみるからね』

 3時間目の社会はもうすぐ終わろうとしていた。山上先生に甘えて授業はほとんど聴いていなかった。しっかり前を見て、時々教科書の頁をめくり、ノートにペンを走らせる。僕の意識はほかの事を考えるのに忙しいから、無意識が勝手に指示を出してうまく取り繕ってくれていた。

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※(注11)ニューロンとは神経細胞のことで、神経系を構成する細胞。情報処理と情報伝達に特化した、動物に特有な機能。