tsurusoの小説

鶴海蒼悠のSF小説

星霜に棲むという覚悟〜Time Without End〜

第5話 フックの法則

            1973年6月29日 金曜

 教室の前方右手にある引き戸がガラガラと音を立てた。大きな目を鋭く光らせて大柄の先生が入ってくる。柔道家のような体格と圧の強さに僕は圧倒されてしまった。この人がクラス名簿にあった担任の野々村先生だった。

 『朝の会』が始まり先生は教壇に両手をついた。整然と話を進める先生は、意外に物腰が柔らかくおだやかな語り口だった。見た目とは違って生徒に気を配る優しい人のように思える。もちろん怒らせると怖いだろうが、困った時には相談相手になってくれそうな人に見えてきた。

 

『待てよ・・・それにしても些細な事をいちいち気にし過ぎていないだろうか? 出会いの度に相手の様子をうかがい、そうしていつまでも疑心暗鬼を繰り返すというのか? 24歳になった僕が教師の立場でもおかしくない。中学の理科や高校物理であれば、いつでも教壇に立つ自信がある。もっと堂々と構えておけ』

『何を言っているんだ。よく考えてみろ。今は13歳の摩耶浩之を演じているんだ。彼が11歳年下の少年だということを忘れるな! 大きな態度や大人の行動は禁物。大人びた考えや知識を口にすればこの世界で生きづらくなる。それどころか異質で危険な人物として扱われて、闇に葬られるとも限らない。他人を演じていることを肝に銘じるべきだな』

                                                   

 さて、1時間目は野々村先生が教える理科の授業で、『フックの法則』が今日の学習テーマになっているようだった。それは、『バネの伸びは、バネを引く力の大きさに比例する』というもの。バネに働く力の大きさを横軸、バネの伸びを縦軸にとったグラフは原点を通る直線になる。“バネはかり”という器具で重量を測定する実用性から、中学1年で教えるようになっている。

 これが期末テストに出題されるのは間違いない。設問を予想するなら、①グラフ作成 ②法則名を問う ③バネの伸びを計算する ④バネの伸びから力を求める・・・こんなところだろう。比例限度や弾性限界、弾性域などを中学生に教えるのは早過ぎる。授業が進むにつれて、質問してみようという気持ちが湧いてきた。しかしそれは挑戦的だと捉えられかねない。僕は上げかけた右手を下した。大人びた考えや知識を口にしてはいけないという先ほどの自戒の念を思い出していた。 

 昼食を挟んで6時間目まで、今日の授業はすべて終わった。その中で、気になったのは英語の授業だった。先生の読む英文が日本語で聞こえていたように思う。僕の持つ翻訳機能は、タイムリープによって失われたはずなのに―――

 『帰りの会』は終わって席を立とうとしていた。すると教室後方引き戸から、2組の早志くんが体操服姿で現れた。同時にクラスメートの澤田くんが心配そうに近づいてきた。「その体調じゃ今日の部活は無理だろうな。監督に今日は休みだと伝えておくから心配するな」と言ってくれた。早志くんも 「そうだな、今日はもう帰れよ」と言う。 部活が何かは知らないままに 「分かった、よろしく頼むね」とお願いした。

 今日は普段とは随分違う少年だったと思う。 それでも何か変だと疑った生徒はいなかったようだった。 体調不良の仮面を被った効果は大きかったのだろう。しかし、いつまでも体調不良を言い訳にすることは出来ない。

 梅野くんは野球部だし、早志くんも部活なので1人で帰宅することにしたが、道のりはとても長く感じられた。途中、駅近くで踏切の遮断機が突然降りてきた。駅のホームへ向かう列車が汽笛を鳴らして空気を引き裂く。大量の煙を噴き上げ、車体をきしませて減速する。目の前を通過していくと、たなびく煙が目に染みた・・・・・・ふと踏切の先に目を向けると、僕をじっと見つめる生徒が見えた。いや、そう見えたのかも知れない・・・煙で涙があふれ、視界がぼやけていたから断言はできない―――

 カンカンと鳴っていた遮断機がようやく上がり始める。『これが蒸気機関車なのか』 とつぶやいて「ふうーっ」と大きくため息をついた。歩き始めると、急に目の前がくらくらして足がよろめいた。よほど疲労が溜まっているのだろう。

 明日は土曜日だけど休日ではない。これを『半ドン』と呼ぶらしい。授業は午前中で終わっても、午後は部活が待っている。そういえば、澤田くんが休み時間に誰かと部活の話をしていたのを思い出した。それによると僕は、バレーボール部に所属しているような気がする。 

 ようやく家にたどり着くと、母親が忙しそうに夕飯の仕度をしていた。夕食と入浴を早々に終えると、「試験前だから」と言って部屋に閉じこもる。このドアは、部屋を出る時は“過去への扉”、部屋に入る時は“未来へ繋がる扉”だと思う。なぜならこの部屋は僕だけの空間だった。ここで安らぎを得て、元の世界に戻ることを夢見る―――

 椅子に座るとラジオの電源を入れてFMバンドを選んだ。音の良い音楽が聴こえてきた。目的もなく参考書をパラパラとめくりながら何曲か聞き流す。その中に不思議な気分にさせてくれる曲があった。それはビーチボーイズの『オール・アイ・ウォナ・ドゥ』 ※2という。聴くにつれて疲れが癒され、幻想的で浮遊感のあるサウンドは心を包み込んだ。いつしか僕は椅子に座ったまま眠っていた。

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※2『All I Wanna Do』は、ビーチボーイズが1970年8月にリリースした楽曲で、アルバム『サンフラワー』に収録されている。このアルバムはセールス的には不振だったが、多彩な音楽性で高い評価と人気を得た。ビーチボーイズの1970年代における最良の作品とされる。

作詞・作曲:ブライアン・ウィルソン/マイク・ラヴ  


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